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(その2)高原のアップルラインをひた走る 長野電鉄 |
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↑東急グリーン一色から装いを改めた長野電鉄2600系
都会を走っていたころには出会えなかった野の花に迎えられて善光寺平を走る ●撮影:沖 勝則
※以下、写真は特記以外全て筆者撮影 |
長野電鉄は長野県の北部、善光寺平に約70kmの路線網を持ち、長野市街には地下線と複線区間があり、志賀高原や湯田中方面への観光ルートには日中毎時1本の特急列車も運転されている。いわゆる「ローカル私鉄」としては規模が大きいのが特色である。
東急5000系が譲渡された当時の路線は、屋代―木島間50.4kmの河東(かとう)線、長野―須坂間12.5kmの長野線、そして信州中野―湯田中間7.6kmの山ノ内線の三線から成っていた。とは言えこの路線名称は開業当時のプロセスを示す歴史的な名称に過ぎず、実際は長野を基点に須坂・信州中野を経由して湯田中に至る33.2kmが特急列車も走る「本線」で、これに屋代―須坂間24.4kmの「屋代線」と信州中野―木島間12.9kmの「木島線」という二線の枝線が加わる格好であった。地図を見ると双頭双尾の線形が確認でき、千曲川を挟んでほぼ全線をJR線が並行して走っていることもわかる。その千曲川の東側を走るから「河東線」なる名称の所以もなるほど…と思い当たる。 |
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↑豊かに水をたたえ 滔々と流れる千曲川の東岸に沿う木島線を走る木島発長野行き2500系2両編成
この区間は2002年3月末限りで廃止され現存しない(柳沢駅―田上駅間で) ●撮影:南 正時 |
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↑長野電鉄の路線図 (1990年当時) |
長野線の長野―善光寺下間2.3kmは1981年(昭56)3月に地下化され、地元の人たちはこの区間を「地下鉄」と呼んでいる。地下化工事は市内の自動車交通渋滞を和らげ、鉄道を地下に移して踏切を廃止するとともに、地上の線路跡を都市計画道路に転用する(現在は「長野大通り」と呼称)という計画を基に進められた。
ちなみに、道路事情の改善(踏切の廃止)のため、地上を走る鉄道を立体化する場合は高架化を選択することが多いが、長野市では、市街地が高架線で分断されることを嫌って線路の上部を街路に活用できる地下化を選択し、費用が高架化より高くかかる分は長野県が配慮することで地下化が決定した経緯がある。
地下区間に入線する車両には、防火・防災対策上から運輸省(現在の国土交通省)が通達する厳しい基準が設けられているが、長野電鉄の従来の旧型車両では大半がこの基準をクリアすることが出来ないため、地下化に備えて新型車両が導入されることになった。このとき白羽の矢を立てられたのが東急5000系で、1977年(昭52)1月から1985年(昭60)10月にかけて7次にわたり計29両が転入し、当時の在籍車両の半数以上を占めるに至った。長野での形式は2500系・2600系を名のり、モハ2500形+クハ2550形の2両編成が10本、モハ2610形+サハ2650形+モハ2600形の3両編成が3本の内訳である。(いずれも長野方先頭がモハ2500形、モハ2610形の組成) |
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↑モハ2500形+クハ2550形から成る2両編成の2500系は「C編成」と呼ばれ
計10本20両が出そろって長野電鉄の主力として活躍(木島駅で) |
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↑モハ2610形+サハ2650形+モハ2600形から成る3両編成の「T編成」は計3本9両が在籍
この「T3編成」は最終増備車として1985年10月に転入した(須坂駅で) |
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↑長野電鉄への譲渡改造工事の終了後
まずは赤一色に塗られた状態のまま東急田園都市線内で試運転を行なう最終増備車の2600系「T3編成」
このあとクリーム色が追加されて 長野に向け旅立った(あざみ野駅で)●撮影:牛島裕康 |
車体塗装は、東急グリーン一色から地元の名産であるリンゴの色を舟形にデザインした赤とクリーム色のツートンカラーに変わって「青ガエル」のイメージを一新、ファンからは「赤ガエル」の新しい愛称を頂戴している。変更個所は色だけではなく、信州中野―湯田中間に連続する急勾配区間の走行に備えて、2両編成中のモハ2500形では主電動機を取り替えて出力が増強されたほか、主抵抗器の容量増加、客室・乗務員室の暖房強化など雪国の地元の特情に配慮した細かい改造も行われ、寒さや雪に強い電車として乗客や現場職員の信頼を得た。(塗装変更を含むこれらの改造工事は、東急長津田車両工場内にある東横車輛電設で行われた。以下、各社へ5000系を譲渡する際の工事も同様である)
長野電鉄では、東急5000系の大量導入により、新しい地下線には入線できず屋代―須坂間の「屋代線」で専用に運用する旧型車モハ1500形を除いて全車が高性能カルダン駆動車に統一され、長野―信州中野―湯田中・木島間では各駅停車列車のスピードアップも行われた。とくに2500系・2600系では、軽量車体に加えて停車時に発電ブレーキを常用することから運転コストの面でも改善が見られたが、電力消費量の低減、ブレーキ用制輪子の節減などは、空気ブレーキのみを使用していた重い車体の在来旧型車を、軽量で発電ブレーキ使用の高性能車に置き換えたローカル私鉄各社に共通する「省エネ化」となった。 |
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↑ 地下化される前の1978年5月 路地裏の観もあった旧長野駅から身をくねらせて発車する湯田中行き2600系 |
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↑同じく地下化以前の1978年5月 仮ホームの旧長野駅を発車して錦町駅に向かう旧型車モハ610形612 |
東急5000系の転入により引退した1927年(昭2)川崎造船所製の全鋼製車両で 屋根が深くリベットだらけのいかついスタイルをしている。長電では旧型車の制御電動車同士で2両編成を組む場合 パンタグラフは先頭車の1基のみを上昇させていた |
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↑長電モハ610形612は1980年4月21日付で用途廃止となったが 同じ長野県内の上田交通に譲渡され 同年6月8日に須坂車庫から搬出 上田では翌1981年8月15日付で車籍編入のうえモハ5270形5271として生まれ変わり 1986年10月の架線電圧昇圧時まで活躍した 赤い屋根上に鎮座する破格な大きさのパンタグラフがよく目立つ(下之郷駅で) |
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↑ 長野市街地下化後は閑散線区である屋代―須坂間の折返し単行運転専用に残った旧型車モハ1500形(松代駅で) |
では、長野から湯田中に向けて「本線」を直通する2500系列車に乗ってみよう。まずは、東京などの地下鉄各線よりは天井が高く頭上の圧迫感がないうえに、夏は涼しく冬は暖かい地下区間を走る。側壁に三色のラインが配された地下駅三駅(市役所前=グリーン、権堂=オレンジ、善光寺下=ブルー)を過ぎ、35‰(パーミル)の上り勾配を駆け上がって地上に顔を出す。(ここでの「パーミル」は勾配の角度を表わす。1,000mを走る間に垂直距離35mを上る、あるいは下るのが35‰で、「千分の35勾配」とも表記する)JR信越本線をオーバークロスした朝陽までの計6.3kmが複線区間で、長野市街のベッドタウンの一角を進み、菅平高原に向かう国道406号(大笹街道)と並んで千曲川を渡ると須坂に到着。屋代から松代を経由して千曲川の東側を走ってきた河東線(屋代線)と合流する須坂には、車庫やCTCセンター(CTCとは、路線や一定区間の単位で信号や分岐器の連動装置を1ヵ所で遠隔操作できる列車集中制御装置のこと)など鉄道の業務機関が集中している。ここで乗務員が交代し、乗客も大半が入れ替わる。 |
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↑ 真夏の水田を前景にすべるように走る2500系
日中の各駅停車列車は大半が2両編成で運行された(朝陽駅―附属中学前駅間で) |
須坂を出た列車は向きを東から北に変え、リンゴ畑の真ん中を突っ切って走る。小布施までの間は「アップルライン」と呼ばれるほど線路脇までリンゴの木が多く植えられ、直線が多いためスピードも少し上がる。そして、都住(つすみ)を過ぎると線路は直線から大きくS字型のカーブを描く沿線随一の景勝区間へ。このあたり、古くは「延徳(えんとく)田んぼ」と呼ばれる米どころであったが、現在はアスパラガスなどの野菜の栽培が盛んでビニールハウスが目立つ。車窓左手には、飯縄山から戸隠山、黒姫山、妙高山、斑尾山と連なる北信五岳を指呼のもとに望むことができ、車内に居ながらにして山座同定が楽しめる。 |
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↑ ビニールハウスが目立つ初夏の「延徳田んぼ」を見下ろす
雄大なカーブを切って2500系がやってきた(都住駅―桜沢駅間で)●撮影:沖 勝則 |
信州中野からは、さらに北上を続ける「木島線」と分かれて東方向にカーブを切り、再びリンゴ畑の中、平均33.3‰の勾配を登り詰めてゆく。信濃竹原―夜間瀬(よませ)間で夜間瀬川を渡るあたり、車窓左手には「高井富士」の別称を持つ北信の名山、高社山が美しい。上条を過ぎて連続40‰の急勾配をこなし、リンゴ畑が温泉旅館の家並みに変わるころ終着駅の湯田中に到着。長野からおよそ1時間10分をかけた各駅停車の旅が終わる。 |
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↑ 華やかささえ感じられる2500系の赤とクリーム色の塗り分けは
北信濃の風土によく溶け込んでいた(信濃安田駅―木島駅間で) |
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↑ 終着駅の湯田中でヘッドマークを掲げた特急用2000系と2500系が並ぶ
2000系は長野電鉄オリジナルの高性能車両で丸味を帯びた柔らかい表情をしている |
【 追 記 】長野電鉄屋代線の廃止に寄せて… |
長野電鉄屋代線(屋代―須坂間24.4km)は、2011年(平23)3月25日付で鉄道事業廃止届出書が国土交通省に提出された。2012年(平24)3月31日限りで鉄道線としての営業運転が終了し、翌4月1日にバス転換されることが決まっている。
この区間は1922年(大11)6月10日に河東(かとう)鉄道として開業、路線はその後、須坂から先、信州中野を経て1925年(大14)7月12日に木島までの全線が開業した。河東鉄道は、長野市内の権堂から須坂までの路線を1926年(大15)6月28日に開業させた長野電気鉄道を合併して同年9月30日に長野電鉄と名を改め、屋代―須坂―信州中野―木島間50.4kmは同社河東線となったが、(「河東」の名の由来については本章の冒頭に記した。位置関係については、同じく冒頭に掲載した路線図を参照)権堂が始発駅であった旧長野電気鉄道線が1928年(昭3)6月24日に国鉄長野駅まで延伸されてからは、直通列車の運転系統は長野―須坂―信州中野(以遠)間に移行した。以後、長野電鉄発祥の由緒ある区間でもある屋代―須坂間は本線から切り離された「枝線」となり、通称「屋代線」として普通列車のみの折り返し運転が行われるようになったのである。 |
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↑ 屋代駅ホームで発車を待つ旧型車クハ1060形+モハ1000形の須坂行き2両編成
左側に顔をのぞかせているのは国鉄信越本線貨物列車のタンク車 |
本章で紹介した「長野線」長野市内地下化に伴う東急5000系導入後も、「屋代線」は長野電鉄生え抜きの旧型車両が変わらずに活躍する舞台であったが、ときには「OSカー」と称する高性能カルダン駆動車が入線することもあり、沿線住民やファンの注目を集めた。この車両はモハ0形+クハ50形の2両編成で2本4両が在籍し、車齢は東急5000系よりずっと若い1966年製。「OS」とは「Office
men & Students」の略で、文字どおり本格的な通勤形電車を指向して長電が送り出した車両であった。 |
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↑ 屋代線は松代から先 進路を北西から北東に改め大室古墳群の近くを走る
離山トンネルを抜け出た須坂行きのOSカー2両編成(金井山駅―大室駅間で) |
河東線の南端部に位置する「屋代線」は、同線の北端部にあたる通称「木島線」信州中野―木島間12.9kmとともに1993年(平5)11月1日からワンマン運転に切り替わり、車両は営団地下鉄日比谷線からお輿入れした3500系ステンレスカーに統一された。このローカル枝線2線のうち、輸送人員の大幅な減少を食い止めることができなかった「木島線」は2002年(平14)3月31日限りで廃止され、翌4月1日から、長野電鉄の正式な線路名称は、列車の運行実態に合わせて長野―湯田中間33.2kmが長野線、屋代―須坂間が屋代線と改められた。そして当時、辛うじて残った感があった屋代線も、モータリゼーションの進展と沿線人口の減少などを要因として今回、「木島線」と同様、廃止の道をたどることになった。
屋代線の年間輸送人員は、1965年度の330万人に対して2008年度には45.8万人にまで落ち込んでいた(なんと86%もの減少)のである。 |
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↑ 1993年11月のワンマン運転化以降 屋代線では営団地下鉄日比谷線から
転入した3500系ステンレスカーが活躍してきた(象山口駅―松代駅間で) |
過疎ローカル線の実態から抜けきれなかった屋代線であるが、実は、国鉄の急行列車が乗り入れ運転を行っていた華やかな時代もあった。1962年(昭37)3月1日、キハ57系気動車2両編成による信越本線の急行列車「志賀」が上野―屋代―須坂―湯田中間に1日2往復の乗り入れ運転を開始、信越本線長野電化完成により翌1963年(昭38)10月1日から「志賀」は165系電車3両編成に置き換えられ、折からのウインタースポーツブームを背景として、冬季を中心に人気を誇った。(上野―屋代間の国鉄線内は上野―長野間運転の5両編成と併結され、屋代で分割・併合を実施)165系はさらに1968年(昭43)10月1日以降、碓氷峠(横川―軽井沢間)で補助機関車と協調運転を行う169系へと進化したが、「志賀」は上越新幹線が開業した1982年(昭57)11月15日の国鉄ダイヤ改正時に廃止され、20年におよぶ直通急行列車の運転に幕が引かれた。 |
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↑ 上野からの乗り入れ急行下り「志賀1号」が5時間近くをかけて湯田中駅に終着
湘南色の国鉄169系電車が長野電鉄の特急車2000系と顔を並べた |
国鉄線内は急行の「志賀」も長野電鉄線内は「特急」扱いとなり、上野―屋代間の急行券700円とは別に、長野電鉄線に入ると特急券80円が必要であった。(いずれも1978年当時の値段)しかし、最優等列車の特急であるから、全線が単線の屋代―湯田中間でも対向列車の行き違い待ちをすることはなく、途中、松代・須坂・信州中野の3駅に客扱い停車して、上野―湯田中間を4時間45分前後で結んでいた。 |
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↑ 折り返しの上り「志賀1号」が長電線内を走る
屋代で長野から信越本線を上ってきた編成に併結されて碓氷峠を越え上野をめざす(延徳駅―信州中野駅間で) |
屋代線は、戦国の世に上杉謙信と武田信玄が対峙した川中島の古戦場跡をかすめ、真田氏十万石の城下町として名高く名勝古刹が多い(太平洋戦争下には大本営の移転計画もあった)松代を通って、千曲川の東岸沿いに平坦地を淡々と走る。屋代―須坂間の所要はわずか36~40分程度であるが、車窓から登山愛好家ならご存知、千曲川を隔てた西北方(つまり屋代から須坂に向かって進行左側)に離れることなく見える、北信五岳や北アルプス後立山連峰の眺めは圧巻である。山村正光さんご名著のタイトルをお借りするまでもなく、「車窓の山旅」を満喫するにはまさにうってつけの路線であった。今回の廃止は、時代の趨勢とはいえ、一介の旅行者の身にとっては大変残念な気がしてならない。 |
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↑ 真田氏十万石の城下町の玄関口として歴史と風格が感じられる松代駅の駅舎
有人窓口では全国でも希少的存在になった硬券切符を購入できた |
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↑ 川中島の合戦で上杉謙信が陣を敷いた妻女山頂からの眺め
3500系ステンレスカーが小さく見える背後には北アルプス後立山連峰の大伽藍がそびえ立つ
右方から順に鹿島槍ヶ岳~爺ヶ岳~針ノ木岳~蓮華岳 |
(2012年3月10日 記) |
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