(その5)譲渡先各社で「セットアッパー」の重責を果たす
↑ まだ東横線の主力として活躍していた1977年初夏
 桜木町行き6両編成が多摩川鉄橋を軽やかに渡ってゆく
    (多摩川園前駅―新丸子駅間で)●撮影:南 正時 
*以下、写真は特記以外全て筆者撮影
 第二次大戦後の復興期、私鉄各社に輩出した初期高性能電車を代表する存在である東急5000系は、1954年(昭29)から1959年(昭34)にかけて計105両、ステンレス車体に変更された同仕様の5200系は1958・1959年に計4両が新造され、長年にわたり東横線の主力車両として活躍を続けた。……沿線の武蔵小杉にあった祖父母の家へ遊びに行くとき、グリーンに塗られた車体が美しい5000系の急行に渋谷から乗り込み、子供でも背が届く最前部の大きな仕切り窓にかぶりついて迫り来る前方の風景を、また運転士の一挙一動を眺めることは私にとって無上の喜びであった。そして、パステルカラーの車内で座席に落ち着けば、静かなモーター音を耳に軽やかな乗り心地を楽しむこともできた……
↑ 東横線元住吉駅を発車した下り桜木町行き5両編成(2両と3両の併結編成)が
元住吉検車区の脇をかすめて快調に加速してゆく。留置線に休むのは後継車の7000系ステンレスカー
                               (1964年夏)●撮影:宮田道一
 東横線では当初の3両編成から、中間電動車や制御車の車両増備に伴い1957年(昭32)に4両編成、1959年に5両編成へと順次増強され、さらに1968年(昭43)には大幅な組成変更により6両編成が登場した。翌1969年以降、東横線には20m車体を持つ大型ステンレスカー8000系の新造投入が進んだ結果、5000系は1980年(昭55)3月限りで同線から撤退、その後は大井町線(5両編成)、目蒲線(3両編成)を運用舞台としてきたが、1986年(昭61)6月18日を最後に全車が東急線上から姿を消した。
↑ 1980年3月29日を最後に25年5ヵ月余におよぶ東横線での活躍に幕が引かれた。
 最終日に先立つ3月16日には「東横線5000形さようなら運転会」のヘッドマークを掲げて花道を飾っている(元住吉検車区で)
                                                  ●撮影:内田博行
↑ 1984年10月14日の鉄道記念日 5000系誕生30周年を祝う3両編成のイベント列車が
古巣の東横線渋谷―日吉間で3往復運転された(元住吉検車区で)        
 その一方、5000系は18mという手ごろなサイズの軽量車体と1両でも走ることができる制御方式が着目され、地方私鉄への譲渡が精力的に行われた。この稿で順次紹介したように、長野県下の長野電鉄へ29両、上田交通へ12両(5200系2両を含む)、松本電気鉄道へ8両のほか、福島県の福島交通へ4両、静岡県の岳南鉄道へ8両、熊本県の熊本電気鉄道へ6両、総勢67両もが転出している。
 東急5000系の形式図と主要諸元表
形式図は上から デハ5000形(制御電動車)、デハ5100形(中間電動車)、クハ5150形(制御車)、サハ5350形(中間付随車)
 県都と、東北一と謳われた湯の町とを結ぶ福島交通飯坂線(福島―飯坂温泉間9.3km)には、1980年12月と1982年(昭57)10月の2回にわたって制御電動車同士の2両編成2本4両が入線した。飯坂線の架線電圧は750Vと低いままであったので、4両とも1,500V仕様からの降圧化改造が行われたほか、2回目の転入車(福島での車両番号はデハ5022+デハ5023)は、東急時代の中間電動車デハ5100形にオリジナルと全く同じ形の新しい運転台が取り付けられている。車体塗装は地元特産のサクランボを連想させる赤とクリーム色のツートンカラーで、色調は長野電鉄車と似ているが、前面の塗り分け方が、国鉄80形湘南電車のような「金太郎の腹掛け」スタイルになったのが特徴。また、沿線の子供たちからは「電車仮面」という愛称で親しまれたと聞いている。
↑ 福島交通ではサクランボ色の2両編成2本が飯坂温泉へ向かう観光客のアクセス輸送を担い
 子供たちからは「電車仮面」と親しまれた(桜水車庫で)              
 富士山の南麓、吉原―岳南江尾間9.2kmを走る岳南鉄道(2013年-平25-4月からは岳南電車)は、沿線に立地する製紙・化学工場からの紙・パルプを運ぶ貨物輸送を主力としている。旅客輸送は、1953年(昭28)の全通時までに国鉄や西武鉄道などから譲り受けた車両の車体更新車4両、1969年(昭44)以降に小田急電鉄から譲り受けた車両8両とが担ってきたが、1981年(昭56)6月に東急5000系2両編成4本8両が入線し、在来車12両全車を一斉に置き換えた。5000系の岳南での形式はモハ5000形+クハ5100形であるが、このうちのクハは福島車と同様、中間車にオリジナルと同じ形の運転台が新設されている。車体塗装は全面オレンジ色(インターナショナルオレンジと呼称)で、窓下に白帯が加わる派手な配色。前面に回る白帯は、やはり「金太郎の腹掛け」スタイルとなり、5000系の顔つきに良く似合っている。
↑ 派手な全面オレンジ色にアクセントの太い白帯が巻かれた岳南鉄道車
          製紙・パルプの貨物輸送がメインの富士南麓で存在感を示した(吉原駅で)
 九州の熊本電気鉄道で、老朽化した在来車を置き換える高性能車両があれば紹介を…との話が日本民営鉄道協会に寄せられ、同会から東急へ向けた打診に応えて5000系が関門海峡を渡ることになった。はるばる九州入りした5000系は計6両。1981年(昭56)12月に第一陣2両編成1本(熊本での車両番号モハ5043+モハ5044)がオリジナル東急グリーン塗装のまま、さらに1985年(昭60)12月には、単行運転ができるよう元の連結面側にも切妻貫通型の運転台が新設された第二陣4両(同モハ5101~5104)が、東急グリーンの地色に黄色とオレンジ色二色の帯を加えた塗装で運転を開始した。架線電圧が600Vと低いため1,500V仕様から降圧化が行われたほか、松本電鉄車と同様、車内にバス用の機器・装置を追設したワンマン運転化改造も施工されている。
↑ はるばる九州に渡った熊本電気鉄道では初めての単行ワンマン運転に就いた
 車内への自転車持ち込みも認められ 地域活性化にも貢献している(上熊本駅で)
 このように、全国のローカル私鉄六社に運転の場を移した東急5000系は各社における車両近代化、省エネ化と輸送力増強に大いに貢献したが、譲渡先で活躍した期間は実は意外に短かった。

 まず長野県下三社を例にとると… 長野電鉄では、1993年(平5)4月からステンレスカー3500系・3600系(営団地下鉄日比谷線3000系)により順次置き換えが始まり、長野冬季五輪開幕を直前にした1998年(平10)1月に、最後まで残っていた2600系T2編成が運用を終了、同年10月に廃車されたことで全廃となった。上田交通では1993年5月、同じ東急からの7200系ステンレスカーに一斉に置き換えられて全廃。松本電気鉄道では、1999年(平11)10月から営業運転を開始した3000系ステンレスカー(元京王帝都電鉄井の頭線3000系)への置き換えが進み、新旧両系列の併用時期を経て、翌2000年(平12)7月を最後に全廃された。このほか、福島交通では1991年(平3)6月、架線電圧の750Vから1,500Vへの昇圧を機に同じ東急からの7000系ステンレスカーに一斉に置き換えられて全廃。岳南鉄道では、松電と同じ元京王井の頭線3000系ステンレスカーの改造による7000形(単行運転用)が1996年(平8)12月、8000系(2両編成運転用)が2002年(平14)12月にそれぞれ営業を開始したことに合わせて、2000年(平12)10月14日の「鉄道の日」記念イベントでの運転を最後に全廃されている。 
↑ 長野電鉄で「赤ガエル」からバトンを引き継いだのは「マッコウクジラ」の愛称で知られる元営団日比谷線のステンレスカー3500系
                                                (朝陽駅―附属中学前駅間で)
↑ 上田電鉄では 同じ東急から転じた7200系ステンレスカーが
懐かしい先代の「丸窓電車」5250形を模したラッピングを身にまとっている(三好町駅で)
   ↑上田電鉄には2008年 さらに東急から新世代のステンレスカー1000系も転入し
      塩田平の新しい顔になった(下之郷駅―中塩田駅間で)     ●撮影:目黒義浩
↑ 松本電気鉄道には京王井の頭線から3000系が入線
 ステンレス車体に白を基調としたアルピコカラーの塗装でさわやかな印象に(新村駅で) 
 このうち、上田交通を引退したモハ5001・モハ5201の2両(ともに5000系・5200系の由緒正しきトップナンバー車両デハ5001・デハ5201)は東急に陸送で「里帰り」し、同社長津田車両工場で新造当初の姿への復元工事を受けたうえで、長らくメーカーの東急車輛製造横浜製作所内で保管されてきた。5001は台車などの下回り装置を撤去、車体の一部も切断された「だるまさん」状態で渋谷駅ハチ公口に移設展示されたのち、2020年(令2)8月にはさらに、ハチ公の故郷である秋田県大館市へと移送され、現在は同市の観光施設「秋田犬の里」で展示されている。一方、日本初のステンレスカー5201は「産業遺産」としての価値が認められ、横浜製作所内に新設された「歴史記念パーク」で車両状態を保ちながら静態保存されている。(通常は一般非公開)
↑ 上田から東急に里帰りし原型に復元された1994年10月当時のデハ5001
 前面に掲げられた懐かしい方向板がグリーンの車体を引き立てる(東急長津田検車区で)
↑ 残念ながら「だるまさん」状態と化したデハ5001は
 忠犬ハチ公の故郷である秋田県大館市内の観光施設「秋田犬の里」に鎮座している ●撮影:米谷 実 
↑ 日本初のステンレスカーの栄誉を担うデハ5201は
 産業遺産としてメーカーの東急車輛製造横浜製作所(現総合車両製作所横浜事業所)内で
                             美しく静態保存されている                             ●撮影:赤坂勝弘 
 さて、5000系の活躍期間が意外と短かった理由は、軽量車体の老朽化が早く進んだことに加えて、冷房装置を搭載していなかった(冷房装置の増設改造もできなかった)ことなどが挙げられるが、野球で言えば「中継ぎ投手」(セットアッパー)の重責を完璧に果たして「降板」した…と評価できる。古色蒼然とした先代の旧型車両の引退から、現在運転されている冷房装置を搭載したステンレスカー登場までの間を見事につなぎ、短い期間中に各社の運転状況を立て直した功労者(車)と言えるのではないだろうか。

 そして、この稿を最初に起こした2011年(平23)5月の時点でも、なお現役で走っていたのが熊本電気鉄道である。元の連結面側にも運転台が増設されたモハ5100形2両(5101A・5102A)が、懐かしい東急グリーン一色に塗り直されて、上熊本―北熊本間の支線、わずか3.4kmの単行折り返し運転に日がな一日、元気に従事する姿を見ることができたが、105両が製造された東急「青ガエル」最後の生き残り2両の余命は、決して長くはなかった。 
東京急行電鉄5000系の車両履歴簿
↑ 現役最後の「青ガエル」は
 東急グリーンに塗り戻された熊本電気鉄道の両運転台車モハ5100形2両が
短距離の単行ワンマン折返し運転に余生を送る(北熊本駅で)
【追記】2016.2.14 「青ガエル」終章
 1957年(昭32)1月に東急デハ5031・5032として生を受け、譲渡先の熊本電気鉄道では1985年(昭60)12月に竣工したモハ5101A・5102Aの2両は、すでに東急より熊本で過ごした年月が長くなった。沿線住民やファンの声援を受けて半ば動態保存的に運転が続けられてきたが、さすがに近年の老朽化進行が著しく、東京メトロ銀座線で廃車になった01系電車に置き換えられることになった。銀座線時代は6両編成で運転されてきた01系は先頭車同士の2両編成に改造のうえ、まず第一陣の01-136+01-636が2015年(平27)2月21日に北熊本車両工場に搬入され、3月16日から営業運転を開始。これを受けて5102Aが3月8日限りで運転を終了、10日付で廃車になった。
 残る5101Aも同年6月以降は毎週日曜のみに運転機会が縮小され、今年(2016年)1月13日に搬入された01系第二陣の01-135+01-635により代替廃車が決定。1月10日からは引退記念のヘッドマークを掲出して運転され、聖バレンタインデーの2月14日を最後に花道を去った。残念ながらすでに解体されてしまった5102Aとは異なり、5101Aは北熊本車両工場内で今後も動態保存が継続され、工場公開のイベント時には構内走行も予定されている。(2016年2月21日記) 
↑ 熊本電気鉄道の一方のターミナルであり JR鹿児島本線と接続する上熊本駅に粛々と進入する
 いつもと変わらぬ乗客が出迎えるいつもの姿 ●撮影:松本洋一
↑ 1月10日からは「青ガエル」59年の活躍を讃える特製ヘッドマークを掲げてラストラン
 有終の美を飾った(坪井川公園駅―北熊本駅間で)●撮影:松本洋一 
 ●参考文献
『東京急行電鉄5000形の技術』 東京急行電鉄交通事業部車両部(1986年6月)
『ステンレスカー』100号記念号 鉄道友の会東京支部東急部会(1989年8月)
『東京急行電鉄5000形』 宮田道一・守谷之男(ネコ・パブリッシング RM LIBRARY98 2007年10月)
『鉄道ピクトリアル』(電気車研究会)、『鉄道ファン』(交友社)、『鉄道ジャーナル』(鉄道ジャーナル社)、『とれいん』(エリエイ プレス・アイゼンバーン)各号
東急5000系 (その1) 
5000系とは
東急5000系 (その2)  
高原のアップルラインをひた走る
東急5000系(その3)
「信州の鎌倉」で地元民が支える
東急5000系(その4)
アルプス一万尺へのアプローチ
東急5000系(その5)
譲渡先各社で「セットアッパー」
の重責を果たす
  鈴木写真変電所 
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