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【京浜急行電鉄歴史】
東京湾を快走!! 謎の汐留申請線と当時の周辺
+奇っ怪な市電三田車庫入出庫線
2023.06.28 Ver 2.60 |
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東急電鉄統合時代も京浜担当者は、都心内にどうしても到達する野望を抱えていなければ、発展を望めないと思ったらしく、地下鉄構想の先手を打つべく敷設の利権だけは押さえなければ。と思い至ったのか汐留線を構想して申請。
東急電鉄品川営業所管内として、昭和22年6月24日品川~新橋間5kmを申請し、それを分離独立後の昭和23年8月31日京浜急行として再度申請し直した→→→申請経過→
←は昭和24年11月の新たな課題の審査過程の書類と思われる
しかし、とても昭和22年に申請したとは思えない大正12年発行の地図と距離がマイルで記入されている古さ。ここら辺も調査せねば。←しました(苦笑)
記入地図が古いのため、海上や川沿いを走る場所が随所に。
役所としても、建設費どうすんだよぉ~。と驚いたと思うのですが
この路線を完成させても実需はあったのか?
驚くべきはS25.01.26に品川~東京間(東京市内線)に路線を変更
→東京市内線はこちら
※地図は申請時に会社が大正12年4月30日に発行された「品川」「三田」「新橋」「四谷」を貼り合わせ(推測あり)作成してお役所に提出した地形図
<2023.06.27記>
T13.02.18付京亥土33号の地方鉄道免許申請が元祖「汐留線」。名称が会社申請の名称であったことや下記に掲載の地図をそこから転用していたことが判明。申請時の驚き?の線路縦断面図も掲載しました→こちら |
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↑新橋の銀座通りに顔を出して終点。汐留開発の外側やん。
終点の新橋1丁目は対岸?に現在、博品館のある場所と推測される |
品川から距離にして3.62マイル約5.8km(店主換算←これが怪しい)
役所の公称は概算値と思うが、品川~新橋間5kmとされている |
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↑宮様の御庭園にドガ!と踏み込んで「芝離宮停車場」を
隣は「浜離宮」浜松町の外れに位置する「ウ~ム」な場所に |
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↑倉庫群の立ち並ぶ裏田町・・・。
南濱橋、月見町の停車場の端っこさが |
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※※東京市内線、汐留線とも社内的に呼ばれていたのか、
不明ですが当サイトでは↑右側に掲出した地図の収納を判別
するために記載してある「汐留線」の表記とおりとします(苦笑) |
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↑東京湾上を走る京浜電鉄って??建設が実現したら
「千と千尋の神隠し」の湖上電車みたい。
起点が当時の一番の繁華街の品川歩行(かち)新宿周辺 |
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↑地図では東京市電が八ツ山鉄橋亘って品川Ⅱへ京浜は品川Ⅰの状態
申請が昭和22年でこの品川停車場になるのか??
戦前の昭和1ケタの時代に申請やっていそうな・・・。 |
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↑新橋までお出かけしよう なんちゃって東京湾上を快走 |
申請に使用した地形図の周囲状況 |
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↑左上:鉄道省被服工場 全国の職員にナッパ服を製作?
黄色囲:謎の引き込み線2カ所(車庫??)
左下:逓信官吏練習所 何を練習していたのか? |
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↑申請地図の左側の部分(俗に言う余分な部分)
地名の「乃木坂」周辺は有名な練兵所とか射撃場、があって、
ここで訓練を受けた兵隊さんの中には戦死された方もいらしゃる。
店主は、とある歌舞グループ名に歴史的な経緯から
違和感を感じている(まさかのENZYOU??)
六本木~乃木坂の周辺は進駐軍の接収が解けた後も
官の土地払い下げまで開発は進まなかった |
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↑大正時代のこのあたりは大きなお屋敷の土地があった |
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↑東京市電 三田車庫の出入庫線
Wトロリー、単車混在使用の時代の筈
架線と線路の敷設はすごい状態だったのでは
出入庫線路は単線表示。中々の見事な?配線に驚く店主 |
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※店名略称:フィルムスキャンs、通称店名:鈴木写真変電所
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