|
【京浜電鉄歴史】
鉄道省 横浜駅三代にわたる移転の図
西口砂利置き場、京浜電鉄、横浜市電等周辺の変遷
2022.08.08 Ver1.45 |
【初代 横浜駅】
===現在の横浜駅Ⅲは海の中===
※記載したいことが山のように?あるのですが、チマチマ時間見てプラスします
相鉄砂利置き場は話しか知らなかったので、店主は空中写真でその規模に驚く |
|
明治24年11月28日発行の地図
【本欄東高島駅ページにも使用しています】 |
■この地図は官設(官営)鉄道が明治5年9月12日(1872年10月14日)に正式開業して10年後のもので、地図記載履歴に
明治15年測量、同18年製版、同20年(1887年)8月26日出版、同24年(1891年)再版、同年11月28日更改出版(補訂)さ
れたもの。用語は現在、出版→発行、更改→修正(別用語もあり)となっている
■鉄道の路線名称は「東海道鉄道」となっている。横浜駅に該当する駅名と駅舎の位置は記載されてない。
作成した帝国陸軍陸地測量部は統一した書き方に苦悶している最中だったかも知れない
■横浜駅から国府津へ向かう建設線(緑色着色)については、実際、明治20年(1887年)7月11日に開通している
明治24.11.28改更時に応急的に入れられたと考えられる
★京浜電気鉄道は未開通
■新橋~横浜間の鉄道記入がある地図は地理院検索システムではこの図が最古とのこと。
これより古い地図はどこかで保存されている図書館などで探すらしいのだが、諸処、面倒臭くて諦め~ |
|
【初代 横浜駅】その2 |
|
↑鉄道駅と駅名が表記されるようになった
※陸軍が明治27年(1894年)12月 平沼短絡線敷設し、休止後、東海道線として活用した明治31年(1898年)以降
かつ明治34年(1901年)10月10日平沼駅開業から本地図発行日までの横浜駅Ⅰの時代の地図 |
=======超 拡 大===== |
|
↑鉄道に関係ないが既に学校や水道道が敷設されている
以降、地図の右側がさらに埋め立てられ、京浜線、横浜市電、横浜駅Ⅱの線路、駅舎が敷設される |
■明治14年(1881年)5月7日
新橋~ 横浜間全線複線化
■明治18年(1895)4月1日
東海道線と名称が定まる
■明治20年(1887年)7月11日
初代横浜駅~国府津駅間が開通
(1)横浜駅に到着した列車は機関車を付け替えてスイッチバック(逆に進行)、現在の高島町付近で程ケ谷
方向に建設された新線で国府津に向かっていた
(2) 開港華やかなりし横浜(現:桜木町、関内)に列車が終点として突っ込むのは当然。と築堤を造成、寄付
した地元横浜の高島嘉右衛門をはじめとする有力者、だったが・・・
全国展開を夢見る内務省からみれば、横浜駅をこの位置のままにすると横浜を境に車両の向きは変わる
し 厄介な問題の駅
■明治22年(1889年)7月1日
東海道線が神戸まで全通
----------------------------------------------------------------------------------------------------
<陸軍の平沼短絡線>
■明治27年(1894年)12月
陸軍が日清戦争の物資を迅速に運搬する目的で神奈川~程ケ谷間に軍事用の貨物短絡線を建設。
工事は鉄道作業局が受託した
地図上の名称「内海、平沼」を線路に必要な幅を埋め立て、ほぼストレートな短絡線を敷設した。
敷設理由は頭端式の横浜駅で貨車の組成、整理が滞り、中には数週間~月単位の滞貨が出たことから、
迅速な輸送が必要との観点で、常識的には当たり前の敷設
■明治28年(1895年) 月日不詳
日清戦争終結により短絡線は使用休止。たった1年だったが、これが後に・・・
■明治29年(1896年)月日不詳
陸軍が短絡線を鉄道作業局に譲渡
------------------------------------------------------------------------------------------------------
■明治31年(1898年)8月1日
短絡線を東海道線として営業を開始。しかし、横浜駅は(現桜木町駅)のまま動かさなかった
この区間の名称は東海道線とされ、神戸~東京方面の列車は短絡線経由になる
初代の横浜駅(桜木町)に行くには神奈川駅、程ケ谷駅で横浜駅行きのシャトル?列車に乗り換える事に
なった。乗り換えはのんびりしたもんだろうから、ものすごく時間のロス
想像ではあるが、路線が延びるほど需要は対東京←→途中地域←→関西になって、横浜に御用のある
方は、減少していったのではなかろうか
因みに本地図はの線路表記は新橋方から横浜(桜木町)まで複線表記、高島町付近から程ケ谷までの
線路は単線表記。神奈川から程ケ谷までの短絡線は複線表記となっている
■明治34年(1901年)10月10日
短絡東海道線に平沼駅が開業
※埋め立てホヤホヤで市街地にもなっていないため、利用されにくかったが、周辺の開発が進んできた
■地図上の横浜電気鉄道(後の横浜市電)の扱い
神奈川停車場前~大江橋(M37.07.15開通)は掲載されていない
■余談
相模鉄道の乗り場は「砂利置き場だったんじゃよ」と話していた昭和の古老のどころじゃ無い!
地図を見れば判るように、なんと海だった。高島築堤に仕切られて明治24年の地図には「平沼」名称が。
その後、明治41年発行の地図には「内海」なる名称で帷子川由来の巨大な汽水湖?が誕生している
シジミが湧いたんじゃなかろうか
そんなこんなで相鉄横浜駅建設(地下街)は急ぐのに泥対策で大変な難儀を重ねた
現在の横浜駅Ⅲは海の中だった
本地図は明治39年測量、明治41年10月30日発行の「神奈川」「横浜」地図を突合加工した
|
|
【2代目 横浜駅】 |
横浜駅Ⅱ開業 T04(1915)8.1
横浜の政財界が総力を挙げて平沼駅経由で直進する東海道線を少しでも横浜駅Ⅰ側に曲げさせた
横浜駅Ⅱが現在の高島町交差点付近に開業。神奈川駅と横浜駅Ⅱの間は幅員が必要で埋め立てで広げられた
結果、短絡東海道線の線路は神奈川駅の神戸方で使用できぬように切断され、平沼駅を含め旅客営業廃止
地図で見ると、切断された線路と平沼駅の跡地周辺にはさっさと油槽所2社、ゴム工場が立地している
横浜駅Ⅱへの線路は京浜線が既にT03(1914)12.20開業していたので、高島町手前まで腹付けして線増、高島町手前からカーブさせた場所に横浜駅Ⅱを設置した。
京浜線は東海道線横浜駅Ⅱの設置を前提の敷設だった
若干離れたまま位置の京浜線「高島町」T03(1914)12.02開業はT04(1915)08.15「横浜駅」に改称 |
|
|
■横浜駅移転により短絡東海道線は廃止された
短絡線廃止後は短絡線沿いの油槽所や工場の貨物輸送に引き込み線として活用。程土ケ谷から運転されていた
■横浜駅Ⅰへの線路跡
京浜線の線路にほぼ腹付線増されて、付け替えが行われたため、横浜駅Ⅰへの線路跡が空き地で残っている
上記T12.10.10.地図では神奈川駅方より一部が油槽所他の引込線として活用されている
帷子川の橋梁は貴重な橋梁故、どこかの路線にさっさと転用されたのだろう
■東海道線 神奈川駅の廃止
神奈川駅は幹線の駅としての役目を終了廃止。京浜線(京浜東北)に譲った。平沼駅も短絡線が廃線になって廃止
■横浜駅Ⅰ(桜木町)から保土ケ谷に至る短絡線は推定ではあるが
(1)桜木町から高島荷扱所(後の高島貨物駅)迄の連絡線の線増として、高島町側を一部、横浜電気に売却?
(2)横浜駅Ⅱ付近から程ケ谷駅までの部分を当初は横浜駅Ⅱから程ケ谷駅迄の線路として使用、
その後、高島貨物駅からの高架線の線路として振替活用したのではなかろうか
※(2)の部分は石崎川沿いに用地を買収して複々線化した。線路位置からして順次振替と想定
工期的にも旅客線と貨物線が順次複線開通で複々線化、一括して用地買収、敷設、既設線路活用と思われる |
|
=====超拡大===== |
|
■高島貨物駅の設置と貨物別線建設
貨物運転の大問題として、一旦、横浜駅Ⅰ(桜木町)まで運転して、スイッチバックするため
(1)横浜港の貿易量の増大や東海道線の延長で横浜を通過する貨物量が激増
(2)狭い構内で機回し、バッファー、リンク連結器の車両の連結、開放は大変な手間
等も滞貨 理由の一端になっていただろう。
貨物車両の組成、整理が滞り中には数週間~月単位の滞貨が出た
結果、初代横浜駅は貨物輸送の隘路として大問題に発展した
※陸軍の平沼短絡線はこのような状況から敷設されている
(3)高島貨物駅の開設
詳細は別ページとして高島貨物線で組みます。製作中 $(_ _)$
T2(1913)06.02埋立てた高島※まで、初代横浜駅(現:桜木町)間に貨物線路を敷設して貨車を
仕分けするヤード機能を持った高島荷扱所(後の高島貨物駅)を設置した
※だから「島」であるが、地区名としては「表高島地区」を名乗っていた。
裏高島は地図上、東横線の高島町(廃線、廃駅)付近となる
T04(1915)12.30、高島貨物駅から高架で程土ケ谷へ連絡する貨物専用線(店主仮称)程土ケ谷
短絡線が開通※した。
この高架程土ケ谷短絡線の完成、使用開始時期は穿った見方をすれば、
高島荷扱い所と同時並行して工事が開始されていて、T02(1913)06.02からT04(1915)12.30迄
の間に完成次第、高架貨物線の使用を開始したのではないかと思われる。
その理由----------------------------------------------
既に明治20年(1887年)07月11日に初代横浜駅(Ⅰ)から高島町経由で程土ケ谷を結ぶ短絡線が
貨客両用で完成しているが、高島荷扱所からは神奈川から横浜駅Ⅰに向かう東海道線の線路と
平面交差が構成されなかったため、組成した貨物列車を再度、初代横浜駅まで運転して
程土ケ谷短絡線に向けてスイッチバックした。
しかし、同短絡線が単線※という線路容量だと、一刻も早い運転線路の変更が必要だったと
思われる。
※地図の程土ケ谷短絡線の表記から推測
---------------------------------------------------------
完成した短絡貨物線は横浜駅Ⅱの駅舎の真ん前を高架複線で京浜線、横浜電気鉄道(市電)
を跨いで、東京方面と神戸方面がスルー運転出来る構造となった。
さらに、鶴見操車場~東高島駅~高島貨物駅のルートが建設中であり、埋立地を縦貫する
高島貨物線(通称)はT06(1917)06.17は高島貨物駅まで開通し、東海道線の貨物専用線として、
単一路線から貨客分離した初の路線となった。
■京浜線
横浜駅Ⅱと将来の横浜市内貫通の線路構想から「神奈川」駅より先は、横浜駅Ⅰに向かう東海道線
「神奈川」~「横浜駅」~(高島)まで、海側にさらに埋立拡張した土地に線路を敷設した。
高島町駅は本図の2代目横浜駅に移転する前に設置されていたが、東海道線がT4(1915年)08.15
横浜駅Ⅱとして移転と同時に横浜駅に改称された
※京浜線の神奈川~高島町駅迄の線路は大正3年に横浜電気鉄道が京浜線線路移設に伴う線路変更
をしているので、T03(1914年)12.20 東京駅~高島町駅※間京浜線運転開始時には既に計画的に
線路が海寄に敷設されていたと考えられる
-------------------------------------------------------------------------------
京浜線はおよそ3~6ヶ月程度で下記の(2)~(4)の工事も続行されているのも推測の理由
(1) 開業日から故障続発で6日後の12月26日運行休止
(2) T04(1915年)05.10 大井町駅~高島町駅間が営業を再開
(3) T04(1915年)08.15 東海道線の横浜駅移転、隣接する高島町駅を横浜駅に統合
(4) T04(1915年)12.30 上記(3)から約6ヶ月後に運行区間を2代目横浜駅から桜木町駅に向けて、貨物線の高架をぐぐった直後から高架線への勾配になって横浜電気(市電)をオーバークロスし、高架構造で桜木町駅(初代横浜駅)まで延伸
■横浜電気鉄道は大正10年に横浜市に買収され、横浜市電気局の所管になった
--------------------------------------------------------------------------------
~~T12(1923年)09.01関東大震災発生~~
2代目横浜駅は倒壊、油槽所の炎上爆発もあって周囲は焼け野原となった。市内各地も火災発生
震災後、構内が避難民で一杯にった時期もあったが、懸命の復旧工事で2代目横浜駅は仮存続した。
しかし、横浜市が官鉄と協議した結果、都市計画として旧短絡線に移転する形で昭和3年(1928)10.15に3代目横浜駅を新設したため、仮復旧したものの「横浜駅Ⅱ」はそれから約6年と短命だった
※横浜市「震災の記録を読む」市電や鉄道の復興等、今後の震災の参考になる貴重な資料です
■貨物輸送の謎
横浜駅Ⅱ駅舎の前に開通した高架構造の程土ケ谷短絡貨物線の被災後の調査未完のため
(1) 損壊を補修して運行した ※ T4(1915.12.30)開通、S4年(1929)9.16廃止
廃止年月日だが、店主、実際の状況は不知。京浜線のアンダークロスの問題もある
※下の地図はS05.12.28発行です。
程土ケ谷短絡貨物線は記載されており、一見、機能しているようですが、あくまでも地図。
線路が荒廃していても、修正されなければそのまま。という事実があります
(2) 鶴見操車場と旅客線の東海道線を繋いで貨物を運行した
(3) 引込線となっていた平沼短絡線を迅速開通させて、鶴見から東海道旅客線→(神奈川)→
転線(平沼)→程土ケ谷で東海道線合流。で運行した
等が妄想で考えられるが、いずれ?調査したいです |
|
【3代目 横浜駅】 |
|
【3代目横浜駅へ】
昭和3年(1928)10.15横浜駅はⅢ代目として旧東海道短絡線の平沼駅付近に移転して開業した
関東大震災による横浜駅Ⅱは倒損壊、線路の破損、横浜市内は木造家屋地域の焦土化、石造りやコンクリート構造は倒壊や傾斜して使用不能になり、その除去に軍隊が主導して爆破解体を行うなど混乱を極めていた
鉄道としては東海道線を一刻も早く正常な状態にさせるためには、混乱した地域の区画整理を待つのではなく、入手可能な広い土地に新駅を建設することが急務だった。
さらに、鉄道省としては煮え湯の横浜駅Ⅱから東海道線を直線化する、またとないビッグチャンスであった。
横浜駅Ⅱの場所を移転反対のため、横浜市関係者が国との交渉の武勇伝はあるが、国内情勢が安定した政府からすれば「お聞きはしましょう」の余裕だったのでは
■横浜の政財界勢力
横浜駅Ⅱを誕生させた政財界勢力は、関東大震災よるヒト、モノ、カネを喪失する甚大な被害を被って、
横浜市の復興、再興の援助を政府のあらゆる機関に長期間依存する事態となって極端に弱体化した。
この時点で政治力学的(復興資金注入の条件)に鉄道省VS横浜政財界の決着が付いて、横浜駅Ⅱの存続は絶たれた
(1)関東大震災による横浜市の都市計画
当面、損壊した従前の場所で線路設備を復旧させながら横浜市と鉄道省は都市計画について協議
鉄道省=国家資金の注入にはある意味、鉄道省の思惑通りの条件付け放題だったのではなかろうか。
(2)横浜駅Ⅱの移転
一旦、廃線にした東海道線平沼短絡線※1を東海道本線として拡充整備し、スタンダード及びライジング油槽所
が震災で火災爆発、廃業した場所を中心※2に横浜駅Ⅲを設置
※1 程土ケ谷~平沼地先までは油槽所2社他の工場引き込み線として使用していた
この計画を進めるに当たって 横浜駅Ⅱと横浜駅Ⅰに関連した線路、駅を整理した
※2 油槽所が壊滅した広大な土地は権利関係者が少なく、駅として早急な整備がしやすく、既に東西直通の実績
のある線路の途中に元平沼駅が存在したから、横浜市としても移転を承諾しやすい条件だったのでは?
<貨物>※上記の地図はS05.12.28発行です
■東海道線直線化は上記の理由で鉄道省の強い意向で貨物輸送にも及んだ。
■海側から山側へ
貨物線は品川からの品鶴線建設、新鶴見操車場の建設が進み、東海道線の線路に鶴見から程土ケ谷(本文
説明上の範囲)まで横浜駅Ⅲの(新)東海道線を経由する山側に腹付線増することで、狭隘な高島貨物駅経由
を避けて運転上直進出来るようになった。※この線路が後の横須賀線に
■高島貨物駅を中心とした高島貨物線は行き止まり支線化
(鶴見・新鶴見)~高島貨物駅~東横浜貨物駅(桜木町)迄の行止り枝線に
高島貨物駅、東横浜貨物駅への受発送貨物は貨物は一旦鶴見(鶴見・新鶴見)を経由となって、対東海、
関西方面の受発送は(鶴見・新鶴見)経由のスイッチバックとなった
<京浜線>
■桜木町延伸
(1) T04(1915)12.30 横浜駅Ⅱの前を高架で横断する貨物線をアンダーパスしてから築堤、高架で桜木町駅に到達
この間、横浜市電をオーバークロスするので、勾配はかなり急だったと思われる
※上図参照
(2) 横浜駅Ⅲの移転に伴う線路切替
神奈川駅を廃止、京浜線(専用)横浜駅をS03(1928)10.15開業
旧横浜駅Ⅱを高島口として名称変更、S03(1928)10.15開業。
その後、高島口駅は線路切替でS05(1930)1.26廃止
(3) 横浜駅Ⅱを高架で横切っていた東海道貨物線はS04(1929)09.16廃止 あっけない約10年
高架線撤去により京浜線を横浜駅から勾配をつける形で高架化が可能になった。
(4) 横浜駅Ⅲから建設した高架線
海側を走っていた京浜線は横浜Ⅲから高架築堤を駆け上り、S05(1930)01.26高島町~桜木町の既設高架線に接続
※地図はS04部分修正、S05.12.28発行の地図に予定線も含め記載
<東横線>
(1) S03(1928)10.15 神奈川駅移転(高島隧道出口付近) ※此の時代の空中写真等は→こちらにあります
(2) S03(1928)05.18「高島」駅開業。地区としては「裏高島」地区
(3) S03(1928)08.03 約3ヶ月で「本横浜」に改称。
(4) S06(1931)01.20「高島町」に改称 |
|
横浜駅Ⅲは東口がメインだった。西口は広大な砂利置き場
※砂利置き場は終戦後~昭和20年代中~後半までだった |
|
↑横浜大空襲前(S20.05.29)の昭和19年10月撮影
砂利置き場は無い。東口のメイン道路には街路樹が植えられている
運ぶ物資があるのか?無いからか夥しい艀が係留されている |
|
終戦後、主に進駐軍の旺盛な建設需要に応えるため、相鉄横浜駅西側の土地※を接収して砂利置き場にした。
※地権者は相鉄ではない
架線が無いので入換機は蒸気?DL(存在があったのか?)だったのだろうか。現在のところ不勉強
東急は高架の島ホーム。
運河の船溜まりになった東口岸壁(物揚場と思われる)には、水深の深い沖で停泊する本船(外航船)から荷を受けて運搬する艀(はしけ)が多数写っている。
本格的にコンテナ化される昭和50年代までは、横浜港内には多数の艀と曳航するタグボートが無数?在船した。
通船と呼ばれる船に乗って作業員は本船と作業組の指定岸壁を往復していた。
その昔NHK朝ドラで「ポンポン大将」という番組があったほど艀と水上生活も身近だった。 |
|
|
↑ 上記写真の1年半後のS22.10.24の米軍接収地の砂利置き場
砂利取り降ろし線3本が短くなっているような。変化自在?? |
|
↑昭和29年発行(S23年修正)の地図では西口の周辺が工事中マークだったり川があったり
東口は駅舎を構えて来る自動車時代にロータリー等再整備、京急の急曲線の原因の郵便局もある。
店主は幼少期に崎陽軒1階で多数の女工さんがシウマイを一層懸命肉詰めしていたのを見た |
|
↑上記の写真の14ヶ月後のS24.01.10の砂利置き場
砂利取り降ろし線3本がまた長くなっているような |
|
↑上のS24.01.10の空中写真から約7年後・・・。S31.03.13撮影では開発が進んでいる
※進駐軍の接収が昭和27年、平和条約及び日米安全保障条約の発効とともに西口周辺区域が解除され、「接収解除地整備事業」が開始された。
開発に当たって「新田間川」を埋め立てて、西口の造成が始まった
※資料として横浜市の調査季報 都心部再開発 横浜駅西口の再開発を参考にしました。
<川砂利について>
相模川での状況も相鉄、小田急系の砂利業者等が首都圏の砂利需要に呼応するため、
川底を掘りまくって、最大5mも川底が低下した箇所もあり、橋脚類の洗掘等が問題になり、
S39年には最終的に砂利採取が禁止され、砂利需要はコンクリートと相性の良い砕石に移行した |
|
【 明治41年7月30日発行と同42年4月30日発行の地図】から
東神奈川付近 |
|
↑ 建設予定の横浜鉄道線が記されている。東海道線が移設される前(M41.07.30発行) |
|
↑横浜鉄道がM41.09.23に開業し、東海道線がアンダークロス。ただし、くぐる急曲線形が疑問
速攻、改訂版(明治39年測図同41年製版、明治41年10月鉄道補測、同 42年3月改版が発行された |
↓↓ それから16年~え~えんっ !
大正12年発行の地図による変化東神奈川付近
アンダークロス部分の線形が修正(線路を直したのか?地図記載修正なのか) |
|
|
↑↑埋め立てがあっという間に進んだ
(1) 別ページで扱う高島貨物線が開業、掲載されている
(2) 東海道線と横浜線の交差部分が修正。※本当に線路が変更されているのか?
(3) 京浜電鉄「新町」駅記載(T04.08.21開業)
(4) 記載されている沿線企業名に黄線入れてみました |
|
京浜電気鉄道開業1年後の「終点」を地図で見る |
|
↑ 京浜電気鉄道開業1年後の「終点」 |
「神奈川」「横浜」双方の継ぎ目にかかっていてギリギリを切り出して繋ぐが、店主のスキャニングの腕が悪くて微妙に
縮尺が違って合致せず
神奈川停車場前→神奈川駅はわずかに□(駅の記号)が見える 程の粗雑な扱い。引き上げ線が延びている。
反町停留所の□は大きくはっきり
因みに、本2図の測量年は明治39年、同41年製版となっている。
※「神奈川」は同上プラス鉄道補測42年3月改版4月30日発行のもの(横浜線+東神奈川駅プラス)
京浜電鉄の横浜駅Ⅲ乗り入れは→こちら
■参考文献 日本鉄道旅行地図帳 新潮社 今尾恵介監修、関係wiki 御礼申し上げます |
|
|
|
※店名略称:フィルムスキャンs、通称店名:鈴木写真変電所
Copyright(C)2010.04 フィルムスキャン&プリントのS All rights Reserved |