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本稿一連を作成するに当たり、鉄道図書刊行会 私鉄車両巡り特輯Ⅱ 京都大学鉄道研究会著「一畑電気鉄道」、同、和久田康夫氏「一畑電気鉄道車両の変遷」、鉄道ピクトリアル493号今井琢磨氏「一畑電気鉄道」、同書555号鈴木大地氏「神話の国にベテラン電車を訪ねて[一畑電気鉄道]」、同、230号「西武鉄道[1]」今城光英、加藤新一、酒井英夫共著、同560号「西武鉄道
時代を築いた電車達」 園田政雄著、同716号「西武所沢工場出身の電車達」岡崎利生著、一畑電気鉄道(株)「BATADEN一畑電車百年ものがたり」を参考、一部引用させていただきました。また、一畑電鉄デハニ50形のWikipediaの一部を引用、リンクをさせていただきました。執筆者に御礼申し上げます。 |
【一畑軽便鉄道から一畑電車の今日まで】※合併線は触れません
■一畑軽便鉄道(株)の設立
会社名が出雲大社電鉄(例)等、「出雲大社」名にならなかった理由
一畑電車の起源は明治時代に遡る。明治の末期に地元有力者と関西が生んだ電気の商才、才賀藤吉率いる才賀電機商会が結束して一畑軽便鉄道(株)を立ち上げたことに始まる。本来は出雲今市(現出雲市)と出雲大社(古来別称:杵築(きづき大社)明治4年出雲大社に改称を結ぶ計画をしたところ、当地を訪れた鉄道院総裁後藤新平が杵築町の外れに大社駅を設置して鉄道院山陰本線の支線として建設することを発言して計画が頓挫した。
※軽便の路線案を阻止する側は鉄道省業務課長を陣頭に、対して軽便側は鉄道大臣仙石貢に陳情したが、軽便側に有利にならずあきらめた。
多分、地元の有力者が業務課長か後藤新平にルートがあったのだろう?敷設するなら「官設」と。また総裁と課長のルートが通じていたのだろう。
しかし、出雲地区で電力供給と電気鉄道設備一式納入をあきらめない才賀電機商会、目的地を一畑寺(通称:一畑薬師)に変更し、明治45年4月6日に一畑軽便鉄道(株)を設立した。この設立の大きな力になったのが「目のお薬師様」として高名な一畑寺であり、8,000株のうち2,000株を引き受けた。ところが半年後の大正元年9月16日才賀商会は不渡りを出して倒産。債権者会議で才賀商会出資分4,000株のうち一畑寺はさらに2,000株有余を負担して合計4,000株となり、発行株の半分を一畑寺が引き受けた。
軽便と名がついたものの、着工前に軌間は1067mmに変更されて、実質、軽便では無いのに社名がそのままなのは、軽便補助金の関係からかも知れない。
■営業開始
雲州今市(出雲市)と雲州平田間は今市線第1期工事として大正3年4月29日に営業開始、コッペル製8.5tBタンク蒸気機関車2輛(1,2号)と定員40人の2軸客車6輛(ハブ1~6)の陣容で1日9往復であった。(貨車未調査)
第2期工事の雲州平田~一畑間は大正4年2月4日に営業を開始した。この時点でボールドウイン製12tC形蒸気1輛(3号)、2軸客車3輛(ハブ7~9)、定員20人のハブ改造合造2輛(ハニ1,2)増備となった。車両番号は類推。さらに1922年(大正11)に蒸気コッペル製12tC形1輛(4号)、客車4輛(ハブ10~13)合計蒸気4輛、二軸客車13輛、2軸合造車2輛の陣容となった。貨車は未調査のため略
※客車は1928年5月26日に全車廃車届け。蒸気は3,4号が1930年、1,2号が1935年までに廃車になっていると推定される。蒸気1,2号が最後まで残ったのは車体重量がC形に比較して軽量、燃費などの点があったのでは?
才賀商会が存続していたら、早期にあるいは当初から電化されたかも知れないが、役員がほぼ地元で電化事情に暗いと思われ、蒸気のまま大正年間を通した。
出資株の半分を一畑寺が払い込み、一畑寺参詣鉄道の性格で設立されたため、会社名も由来に沿った名称となった。。
その後、当初の目論みを実行すべく・・・。出雲神門(大社前)まで延長したが、社名の改称など、とんでもないことだったと想像される。
路線は下記のように延長されて現在の骨格が出来上がった |
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→平田車庫内に残された蒸気時代の給水塔。
出雲今市、平田市及び一畑駅に関してターンテーブルの話を聞かないので、復路は機廻し線で位置替えし、バック運転牽引していたと思われる。 |
和久田康雄氏調査による蒸気時代の鉄道統計資料(在籍車両報毎年度末:11月末)※客車の区分及び客貨車の車号は店主補記(類推)
年度 |
蒸気(総重量)車号 |
客車(定員)形式ハブ |
合造客車 (定員) 形式ハニ |
有蓋貨車 |
無蓋貨車 |
大正3年 |
2輛(17t) 1,2号 |
3等6輛(240人)1~6号 |
ー |
2輛 ワフ201,202 |
4輛 ト401,402+?? |
大正4~10年 |
3輛(29t) 1,2,3号 |
3等9輛(360人) 7~9号 |
3等荷物合造2輛(40人) |
4輛 〃+ワフ251+?? |
4輛 〃 |
大正11年 |
4輛(41t) 1,2,3,4号 |
3等13輛(520人)10~13号 |
3等荷物合造2輛(40人) |
4輛 〃?? |
4輛 〃 |
大正12~15年 |
4輛(41t) 1,2,3,4号 |
3等13輛(520人) |
3等荷物合造2輛(40人) |
5輛 ???? |
4輛 〃 |
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■今市線の電化と松江線、大社線の電化開業
電化は大正13年に小境灘(現一畑口)~北松江間の延長検討時に決定された。
結果、大正末の14年7月14日に社名を一畑電気鉄道に改め、今市線は昭和2年(1927)10月1日に電化され、出雲地方に初めて電車が走った。
なお、電化工事は三菱電機が行ったとあり、後年、弘前電気鉄道の電気設備一式を三菱電機が請負ったことに三菱の一括請負の起源が一畑電鉄だったとしたら何らかの因縁を感じる店主である。
架線柱は軌条を重軌条化の際に派生した開業時からの28ポンド/ヤード(13.8kg/m)レールを組み合わせて充てた。現在も主力柱。
松江線、小境灘(S27.10.1一畑口に改称)~北松江間は昭和3年4月5日に営業を開始した。
大社線は新たに分岐点として設置された川跡駅~大社神門(現:出雲大社前)間が昭和5年2月1日に営業を開始して当初計画の全線が開通した。 |
■一畑寺大損害を被る
終戦直前の昭和19年11月6日、小境灘~一畑間3.3kmの線路を供出する命令が下り、線路の撤去工事を行って供出先の名古屋鉄道に到着したのは昭和20年8月。その一週間後に終戦を迎えた。
不要不急路線に指定されて線路を供出した区間ではあったが、軽便設立時に参詣者の増加を目論んで総株の半分4,000株も負担した一畑寺としては、寺の財産を注ぎ込んでたった30年で参詣者のための線路をはがされたのではたまったものではない。という思いが強かったのではと思う。再度、線路を敷設する資力もない、電鉄側も小境灘~一畑間乗客の増加は見込めず、復活はならないまま昭和35年4月26日付で廃止となって今日に至っている。日付は専用道開業のため、届出上、書類を提出したと思われる。
名を馳せた全国の薬師様ではあるが、医療機関の発達により参詣者が減少、薬師様以外の願掛では巣鴨「とげ抜き」地蔵が有名地化。地の利かも。
→現在の一畑寺へリンク
■一畑パーク(一畑遊園地)開園と専用自動車道
昭和36年(1961年)8月に休止線路をほぼ再利用、山頂までの道路を整備して一畑寺に隣接する山頂まで有料自動車道※として整備、同年10月に一畑寺山頂に一畑遊園地(通称:一畑パーク)を開設、自動車来園客を見込んだ。※道路整備料の回収か
当時の資料等を見ると動物園も併設されて地元に親しまれ、賑わった時期も多かったようだが、山頂という場所で季節による寒さ等で来園客の多寡があり、加えて遊園地の設備も老朽化したため、昭和54年8月閉鎖された。それに伴って自動車道は昭和54年9月に一部を県道に移管して営業廃止。
一畑薬師に御恩返し?で集客を狙ったものの、18年という短命に終わったようである。
その後、一畑電鉄のマイクロバス(店主乗車時)による一畑口~薬師間の電車接続バスが運行されたが、現在は運行ルートを広げて一畑薬師を含む周辺広域の出雲市の生活バス(マイクロバス)に代替えされている。
※何故、分社時に出雲大社電鉄等の別社名にならないか設立時の資本を考えれば。 |
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→全線(電化)開業に備え増備された合造車デハニ50形53号 |
しまねミュージアム協議会が島根県の様々なデータを保存。
しまねバーチャルミュージアムで 思い出の一畑パーク(同ミュージアムへリンク)の記録を公開しています。
CMの白黒編の初っ端はなんと!!。カラーCM編ではもう、登場していない・・・。是非ご覧ください |
■線形地勢
宍道湖と日本海の間はたった4~5kmの距離(地幅)しかないが、そこに大船山、朝日山をはじめとする2~300m級の山々が連なる。
北松江から先、布先あたりまでの宍道湖岸には、これら山々が湖岸までせり出して、その小さな扇状地に小規模な集落が点在している。
狭小な扇状地には今後、発展の余地はなさそうで湖岸の少子高齢化、限界集落的な風情が感じられる。入り組んだ山裾と僅かな湖岸の間を縫うように線路を敷設したため、制限30km/h程度の急曲線が随所にあって、スピードアップは湖上を走るかトンネルでぶち抜かない限り不可能なのが松江線である。
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一方、布先から出雲方面は斐伊川をはじめとする河川が歴史ある氾濫を繰り返して「出雲平野」を作って穀倉地帯となっている。
平地なので線形は定規で引いたように直線区間が多く、電化当初から75km/hという破格の高速運転が可能であった。
※75Km/hから車両改造による速度向上でその後85km/hとなった。
中心地の平田は江戸末期から木綿関連産業で栄え、酒、醤油などの醸造所が数多く作られ、現在でも4軒近くが生産活動を行うほどの人口集積地だった(過去形)。平田を起点に出雲、松江への流動が大きいことから車庫が置かれたのは当然といえる。木綿街道のリンク
■国土地理院地図一畑電車沿線の地勢→リンク
※高ノ宮駅付近を中心に表示するようにセットしてます。移動や拡大縮小すると沿線の地勢が克明に判ります。
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■2015.10に見る出雲市現地の動き
近年、宍道湖のJR側に松江、出雲市を結ぶ主に無料主体の高速道路が開通、電車の利用客を減少させたが、高速度道路とそれに接続する陰陽連絡道をはじめとする周辺道路の接続によって出雲平野と名のつく平たく大きな土地の出雲市街には商業集積が進みつつある。
来年にはあの有名な「イオンモール」が(32,000㎡総床面積)で移転開業する。既存の巨大対抗店もあり、出雲市はロードサイドに巨大な有名店が集積中。弘前市街がもぬけの殻になって城東地区ロードサイド集積と同じパターンになるのは確実。
通常、「モール」は生鮮、飲食、衣服、娯楽等を含んだ個店が入る回遊形の新型百貨店・商店街のため、駐車場に止められれば一日過ごせる。
一畑電車の沿線自体には小規模なローカルマーケットしかないが、これもコンビニが各所に開店中。個店は壊滅し、電車を利用した買い物は消滅に向かうだろう。今後はさらにマイカーが出雲市街に流れるようになって島根県南部の商業中心地になる状況である。 |
【観光輸送を重点化していくのか】
減少一途の日々の生活乗客の確保は最重要ですが、急激な沿線人口減少に何らかの施策でプラスすることは最重要な課題ともいえます。
出雲大社と出雲市、島根県が連携して大々的に街並の改造、店舗のリニューアル、ゆるキャラ「島根っこ」、そして「結婚縁結び」のキャッチフレーズで出雲大社地区の活性化を推進している結果、2年前の遷宮以来、女性を中心とした若老観光客が激増しており、それにあったほぼ限界の輸送能力スジを設定したダイヤで観光客の取り込みに成功しているように見える。しかし、1時間に1本程度は寂しい。
次に行きたい時間の制約が大きくなる。引き留め策として
・指定券乗車整理券
老人が前に立つとどかなければならないとなると、足もお財布も疲れた観光客は全員が席を立つ状況になりかねない。専用車両とすべき
シルバーシートは別車両で基本整理券のみ乗車車両)
マイナーではあるが、5009-5109が椅子類を木質化周囲を木質風にした個室感あふれる大層デラックスな車両を平成26年より運転している。
※知らない者同士はこの個室感覚がコッパズカシイかも
→別項に詳細掲載(作成中)
ただし、冷静に見ればブームであり、遷宮は60年に一度の祭事。
出雲大社60年に1度
伊勢神宮20年に1度
参拝客を増大させる遷宮の時間差は大きい。
親子の参拝客を引き継ぎ取り入れるようなもう少し短いサイクルが無いと60年では親子の間も離れすぎて一生に1回になってしまう。
御婚姻の慶事についても現世では宮司が神話伝説の神のように多数の女性と伝説を作るわけにも行かないだろうから、別途数年に一度の仕掛けを考え続けなければいけない。
5~15年に1度程度の各種行事を立ち上げる必要がある。
お寺の**年に一度のご開帳も同列と考える店主。
伊勢神宮は式年遷宮遷宮、門前町の名物を作るなど地元と協働して参拝客の取り込みをうまく工夫している。出雲にスイーツ系の店舗が出来てきたのは良いかも。
一畑電車も
空港のまねごとではないが「縁結び松江口駅」、「縁結び出雲口駅」、「薬師様梺(ふもと)駅」(恩義込み)、「木綿街道の平田駅」等と駅名をリニューアルするか、副駅名を採用して行くのも手とは思う。
沿線風景では松江温泉~湖遊館新駅あたりまでの眺望や大きく広がる田園が売りである。名物の風除け築地松は老木化や保守、住宅自体の高品質化でその数を大きく数を減らしてしまった。
松江温泉から宍道湖が見える車窓側は素晴らしいが、これに沿って椅子を並べる改造は一畑口から逆方向になり、その先の眺望がちょっと寂しいことになる。
人口集積地からの誘客に島根県を中心に電鉄(電車)にも頑張って欲しい。
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↓木質化第2弾車両 デハ5109+5109詳細はこちら |
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■道路拡張と線路の移設
国道431号線西浜佐田地区の拡幅工事に伴って踏切と国道の間に車両が数台信号待ちできるように、線路を日本海側に大幅(20m以上?)に振って松江イングリッシュガーデン前(旧:古江)松江温泉方分岐器先の橋梁付近から佐陀川橋梁までの約1.4kmの区間を新線化、移設する工事を平成18年から着工、平成22年12月12日から新線での運転を開始した。
PC枕木、一畑初の50kgロングレール軌条と厚盛砕石道床、最新支持具のシンプルカテナリーで時速160km/hは可能?な線路となり、まさに滑る感覚でと思いきや、すでに約5年が経過し、多少路盤が劣化していたが振動の少ないバタデン最高級の乗り心地であった。う~んこの先から曲がりくねってアップダウン |
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↑枕木とレールは最近主流のパンドロール形で締結。架線支持具も最新形品。製作各メーカーが気になる店主←気にしてどうする。(その通り-苦笑) |
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↑イングリッシュガーデン駅付近の新線を快走する。架線柱も見事に太いJR御用達の既製品。 しかし~ぃ。雲が出る・・・。 |
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