本ページ作成に当たり鉄道ピクトリアル269、335、442、600、749号東京急行電鉄
を参照させて頂きました Ver1.06(2023.01.01) |
玉電の歴史は玉川電気鉄道がM40.3.6道玄坂上(中渋谷※)~三軒茶屋を開通したことに始まる。
※「4訂版 資料日本の私鉄」
開業後→S13.4東京横浜電鉄(1)と合併→S14.10.1目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄(1)が合併して商号を東京横浜電鉄(2)で存続
→S17.5京浜電気鉄道、小田急電鉄を合併し、東京急行電鉄に社名変更。その後はS44.5.11(日)廃止まで東京急行電鉄玉川線となった。
線名は同じでも社名が3回も変わっている。
【開通関係】
M40.3.6道玄坂上(中渋谷)~三軒茶屋2.8km、M40.4.1三軒茶屋~玉川5.8km、M40.8.11道玄坂上~渋谷0.5km、
この3区間は当初1067mm軌間であったが、東京市電気局の路線に乗り入れるためT9.9.3に1372mmに改軌された。
※改軌にあたり1067mmの単車は廃車となり、1372mmの単車1~15号が新造された。
T13.3.1二子玉川~砧2.2km ※軌道法→S20.10.1地方鉄道法
T14.1.18三軒茶屋~世田谷2.0km、T14.5.1世田谷~下高井戸3.1km
S2.7.15玉川~溝ノ口 ※溝ノ口線として延長開業、S18.7、1067mmに改軌、大井町線直通化。S20.10.1地方鉄道に変更)
【山手線内域に乗入れ路線について】
渋谷~(T11.6.10)~渋谷橋~(T13.5.21)~天現寺橋、渋谷橋~(S2.3.29)~中目黒(開業日)
S13.8.19東京市電気局に経営委託、S23.3.10東京都交通局に路線譲渡
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↑渋谷駅を発車する下髙井戸行き
上に懐かしの「ピィポ~ォ~ッ」とホーム進入時の銀座線タイフォン。
モノホンのイエロー車がワンサカというか、それしかいなかった。
ガラガラ~ッと如何にも片引き戸の音を出す1300~1600形
のどれかが入った編成や後方のビルも懐かしい。 |
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↑左が銀座線渋谷車庫、右は京王帝都電鉄井の頭線。 |
早速脱線~、登記から「帝都」の文字を外した 京王電鉄。帝都高速度交通営団も無くなり
都内の交通機関ではタクシー御四家の「大日本帝国」の中の1社のみ。「帝国の逆襲」なんてアリ?
通称名で「京、行」抜きや「浜、行」抜きになった電鉄もある。昨今、略称含めて4文字電鉄会社が流行 |
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↑二子玉川園操車室 この時間、ハナタレは始発で自宅を出発か。記憶が無い。 |
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↑30形 ボウのようなシューをつけたビューゲルが特徴だった |
<玉電のビューゲル化>
S24.5.14、15でポールの取り外し、ビューゲルの取り付けが行われ、15日から全線でビューゲルで運転された。
鉄ピク335号P77久原秀雄様の記述(モハユニ12号の転載記事)を中略、要約のため「てにおは」を適宜変更し転載させていただきました
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横浜市電の今橋さんに1カ所でも架線に悪いところがあると、そこを通る電車はつぎつぎとビューゲルを壊すと教えられ、特に亘り線のところで、2本の高低差があるとそこにビューゲルが首を突っ込んで破損すると忠告された。
4月15日に9号車にビューゲルを取り付けたとき、物珍しさと早く動かして見たさに架線のことを忘れて走り出したら、2車身も動かさない間にビューゲルをひん曲げた。
それからは屋根にまたがってビューゲルの紐を握って、各改修箇所に試運転に向かった。
どこよりも先に砧線の架線の改修がおわったので、4月末から9号車がビューゲルつけて営業についた。
架線の改修は二子の方から渋谷に向けて進められた。
試運転車は一端にポール、他端にビューゲルをつけ、ポール側へ進むときはポールを180°回転して走るので珍妙な姿となる。
2~3回試運転をすると屋根上のメンバーも慣れたもので、架線の未改修区間に入ると前のビューゲルを下げて後方のポールを上げた。運転士はその間はノッチオフにしながら惰行している。
5月初めにはビューゲルだけで全線の試運転が可能になった。引掛るところや離線するところもなくなり、手放しで走れるようになった。もう、こうなれば屋根上ほど快適なところは無い。屋根上の人数は一時10人を超すこともあった。
5月14、15両日、入庫車のポールを降ろす。ビューゲルを載せる、高さを調整して圧力を加減する。出る車、入る車、試運転と慌ただしい。
最後の入庫車の時は表まで迎えに行って玉川線最後のポールを引降した。55両の付け替えを終えて、玉川に夕陽が沈むのを見て試運転から帰ってきた。
※玉電は当初ダブルトロリー(+・ー)で2本のポールを上げて運転されていたが、後年、シングルトロリー化された。
ビューゲル変換はシングルトロリー化のあと。
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↑30形は中央に折畳ステップを装備していた。有人駅等。定められた電停のみ係員が開閉した。
↓出入り口標記とリベットの数を数えたい方用(上の写真拡大) |
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↑出発前の62写真でかくてすいません。あまり首を振れない自動連結器
玉川電気鉄道の車両としてT14田中車両製の木造ボギー車31号~35号として5両誕生
S14川崎車両で車体を半鋼製化。S17年71~75に改番※東京横浜電鉄(1)の時代。
会社合併東京横浜電鉄(2)の時代に61~65と再改番
連結運転用に改造時デハ40形の台車に京浜5140形のモータ(GE263,65HP) 交換。 |
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↑単行で砧本村に向かう 62号(K2-A連結器側) |
T13.3.1開通したときの駅名は「砧(きぬた)」、電車の方向幕は平仮名の右書なので、左から読めば「たぬき」
これが原因か不明だが駅名はS36「砧本村(きぬたほんむら)」に変更になった。
※鉄ピク749号P87高松吉太郎様写真(方向幕文字)とキャプションから本文作成。
↓単行の場合は連結器に内蔵されたムキ出しの電纜ピンの接触感電を防ぐ目的で、非使用時のK2-A連結器にはカバーが掛けられていた |
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↑砧本村返しで通勤客を乗せて本線と同時到着。62号遠心力掛かってますなぁ。 |
砧線は地方鉄道法で営業、玉川線は軌道法で営業しているので、砧本村~中耕地間で玉電方面の乗車券を買うと 玉電の運賃が別途合算された。玉電以外の鉄道線は通し運賃。珍な事例。※鉄ピク749号P121。
<余談>京急大師線はS18.6.1軌道法から地方鉄道法に変わったが、当時の本線との連絡運賃はどうだったのか気になり始めた(笑) |
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↑そろそろ眠りから覚める63号2連 |
S39.砧線の運転時急カーブで通常の自動連結器では外れるので※(鉄ピク442P114) 61と63渋谷方、62と64の二子玉川方の連結器を京急の密着自連化で余剰となった首振り角の大きいK2-A連結器に交換した。65は単行仕様のまま連結器の交換はしなかった。
※K2-A連結器は電気回路、空気管付きで電気ジャンパは不要。 砧線の連結車はこのK2-A編成が専用で使用された。 |
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↑2連で砧本村まで朝ラッシュの乗客を迎えに行く。 |
※テールライトが異様に赤い。10年以上前のスキャナーの退色補正ソフトがまだ性能低かった?
このコマはビネガーに罹患、アイロン、水洗でオシャカになりました。 |
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↑35号二子玉川と63号砧線。2Bフィルム巻き上げ忘れで。
2重撮りを分離する画期的ソフトは出来ないかなぁ~ |
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↑三軒茶屋の分岐区間を行く70形。渡り待ちの「赤色行先板」下高井戸行き
60形と車体が同形態だが当初から総括制御車として登場している。 |
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↑お別れ乗車で満員 |
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↑卵電200形トップナンバーを撮影してたなんて。¥欠でベタ等何も焼けなかったので、SCANして初めて知りました。 |
200形は玉電のトップスターであり、店主も大ファンであった。
戦後10年もしない時期に「夢のある車両」を登場させた関係者の意気込みと技術力は感謝。
S30.7.12~8.8迄の間に東急車輌から陸送で二子玉川に運ばれ、そこで線路に乗せられて大橋車庫まで牽引された。
しかし、現場では保守、運転とも扱いにくい車両で概して不評だった。
そのためか?廃止1年前のS43.1から廃車が始まっていたことは知らなかった。検査期限の関係? |
車号 |
入籍日 |
廃車日 |
201 |
S30.7.12 |
S44.5.11 |
202 |
↑ |
S43.1.1 |
203 |
S30.7.25 |
↑ |
204 |
↑ |
S44.5.11 |
205 |
S30.7.30 |
↑ |
206 |
S30.8.8 |
↑ |
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↑↓205号 どういう撮り方してんだか |
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↑↓模型ファンの方から↑入口↓出入口の文字について問い合わせがありました。
多分「なるべく つり銭のないようにお願いいたします」 と記載されているように思われます |
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↑↓荒廃した戦後から10年。設計はどのくらい前だったのかとても昭和30年の作とは思えない。 |
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↑205号の運転台 ↓車内 |
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↑上を見上げれば6000系が大井町に向かう。すでに新玉川線がくぐるガードは完成(大鰐線JR交差ではありません)
玉電の玉川駅名変遷:玉川→S14.3よみうり遊園→S15.1二子読売園→S19.10二子玉川→S29.8.1二子玉川園→S47.8.6二子玉川 |
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↑81号2連が通勤客を満載して到着。毎度ブレてすいません。 |
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↑150形 |
昭和39年4月に150形4両と同年10月29竣工届で定山渓鉄道2300形2両が同類の車両として誕生した。
鋼製車両ではあるが、この6両は鉄板厚を薄くするために高張力鋼を使用して、台枠を見えるよう残した形でステンレス同様のスポット溶接(東急車両の工法名称はショットウエルド工法)で組み立てた車体を誕生させた。
当時アメリカのバッド車と技術提携契約して100%ステンレス車7000系を製作したが溶接時などに発生するアバタとひずみ隠しのコルゲート板は、まだ必須であった。ところが一種の流行となって鋼製車でも製作してみようと試作?したのでは無いか。
<補記>
東急車輌20周年技報より概要抜粋
耐蝕鋼の点溶接構造「BSD式」を取り入れた自社用牽引車101を完成させ、定山渓デハ2300、TKK玉電150を製作したが、その後製作されてない。
と記されている
<また余談>
スポット溶接の痕跡は塗装する際にパテ埋めされて平滑にされたようだ。省けばアバターな車体見つけになったはず※店主の想像です。
東急車輌の牽引車モニ101号も車体にコルゲートつけて、前面や屋根上、窓などが7000系とそっくり。部品流用みたいな車体で活躍していたが竣工時期や工法が文献未発掘ながら、同類の仲間に入れば合計7両がこの手の鋼製車体となる。
定山渓鉄道2300形は東急系列に加入したものの、入線後たった5年で廃線になっていることから、経営陣は先を見通していて、この2300形を全客窓Hゴム固定、足回り再活用等、コストカットを徹底した車両にしたのではないか。
北海道の夏は冷涼と言っても、空気があまり動かない有名なファンデリアのみでは、夏期は酷評で「ゲロ袋を車内に取り付けた」実績もあったようだ。「」部分は鉄ピク私鉄巡り10分冊「定山渓鉄道」小熊米雄様著より |
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↑世田谷線として残った下髙井戸~三軒茶屋間 三茶を発車する
↓東急車輌モニ101 正面(7000系)とコルゲート、台枠外板立上、屋根、ドア周り等一式で同系列の製造法と類推 |
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世田谷線の車両は徐々にデハ300形に車両交換されて H13.2.11以降、
旧来の玉電は全車消滅した。 |
150形 |
車号 |
入籍 |
車体更新 |
151 |
S39.4.22 |
S58.8.11 |
152 |
↑ |
S58.10.2 |
153 |
S39.424 |
S58.12.22 |
154 |
↑ |
S59.3.20 |
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↑すんませんなぁ~。「大橋」とか読めれば記録として何でも貼り付けちまいます |
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↑遠足のバスから(横浜市電にも一連の2コマが)↓他校のはしゃぐ生徒 |
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↑お嬢様も惜別撮影。
↓いずれSCANし直さないと・・。これ以上明るく出来ません。原因は?? |
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↑↓80形 S44.1.15 渋谷から下高井戸迄乗車する。80形もまともな写真が無い。 |
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↑お別れ装飾のカラーの感じと言うことで、掲載。原因不明の光線引きや~ |
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※店名略称:フィルムスキャンs、通称店名:鈴木写真変電所
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