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京急 昭和(その1)昭和40年代~本線230形最後の活躍 |
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東京地下鉄道との直通運転を考えて東京地下鉄道1000形と車両規格を揃えた230形。
湘南電鉄デ1形1930年(S5)4月1日に25両、遅れて京浜電鉄デ71形が1932年(S7)7月に12両が1435mm軌間で製造された。当時、京浜電鉄品川~横浜間は軌道線として1372mm軌間で改軌するまで運行が出来なかった
その後1936(S11)11月、京浜電鉄デ83形12両、1940(S15)年7月湘南電鉄がデ26形6両製作。
この後、複電圧対応で無い600V車の製造や大東急時代、戦災等の変遷で廃車、改造名義車も編入されて2扉、3扉の複雑な生い立ちを含むグループになった。
しかし、野望が実現(→品川駅の変遷)していたら京急の車両規格はダブルスタンダードになったのか、そのままの規格では最大12連が私鉄最長の14連とかのとんでもない車両編成になった?とか、都心乗り入れ車両は台車にサードシューが付いて接触防止のために折りたたみ式で電流OFF構造になったか?パンタや屋根の高さ、冷房はどうやった。あるいは線路改良をやりまくって16m車8連と20m4連を併結して品川切り離しになったのか。とか、わっくわくする妄想が(苦笑) |
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↑↓大晦日~元旦(3が日)の品川~川先大師(東門前)直通急行。
基本、3M1Tで運用される大師線は「終夜運転・大線直通急行」
運転の際はオールM編成も交えて大晦日~元旦(3が日)にかけて普段乗車できない本線連絡線を走行した。
本線直通急行は六郷鉄橋架け替えで連絡線が使用停止になったこと、大型車の入線で東門前駅の折り返し有効長不足もあって廃止された。
「新」連絡線は新町検車区への入出庫以外使わないので、直通運転再開する際はを急勾配線での停止操作が必要な場合と、ホームが 行き止まりという形の中で「慣れた乗務員」も必要で現在は乗客を乗せたままの運行は、イベント以外の入線は無い。
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↑230形の本線内の普通仕業はオールM4連が充てられた。↑↓客ドアが横桟入りの車両もあった。
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↑↓本線の活躍の最後は「荷電」。これも400形にバトンタッチしたものの荷電自体が廃止された。 |
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↑神奈川新町の車庫。たまたま右も左も230だけが写っていた。後方に京浜東北線が走っている。
その昔、車庫の奥は東神奈川電車区と柵も無い状態で隣接していた。
戦後大混乱期の大東急時代に相模鉄道は二俣川で横浜方600V(東急京浜線から受電)、海老名方は1500V(東急小田原線から受電)しており、異なる異電圧を直通する車両がなかったため、戦災で損傷していた複電圧車デハ5230形5281,5285の2両をに白羽の矢が立てられて、東神奈川電車区に回送用の台車を持ち込んで、線路が隣り合ったこの場所で俗に言う「横持ち」し、1067mm軌間の車両で復活。
連絡線経由で相鉄線に入線。井の頭線デハ1450形焼損車の台車を小田急経由で回送し、主電動機なども・・(以下相鉄に記載)
複電圧区間直通車としてS20.12.25から全線1500Vに統一されるまでのS22.11迄の約2年間の運用を行った。
直通当初の運用は横浜~二俣川600V車として4運用、二俣川~海老名間は1500V車として2運用(朝夕2本が相模厚木まで直通)し、
二俣川~厚木(本厚木)間の直通運転を行った。
詳細は相鉄ページへ→こちら※5000系の頁の下の下の方の3010系の下に京急の融通送電も含め記載。 |
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↑272の4連-白地急行板
↓240の4連空色丸抜き急行板 双方の種別板は鉄板製。 |
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↑屏風ヶ浦駅迄は線形も良く、「G」なら飛ばしてきます。
金沢文庫~横浜間の急行は特急の「上大岡」に「黄金町」
「日ノ出町」の2駅プラスだったので俊足。
↓トンネル前のカーブで制限80km/hに減速 |
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↑本線で活躍中243 オールM33.5tの軽量車体(主電動機出力93.3kw)なので加速は良い |
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↑↓こうやって撮影出来たのだから、定期的に本線用230形の8連の回送があったと思われる。 |
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↑↓230のベンチレーターは当初無かったが、後付けでこのような形になった。
当時の日本の車両の中でも唯一的なのか稀な形(不勉強)で、お屋根はさっぱり状態。列車無線アンテナなど有りません。 |
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↑デト34 ↓若干拡大 |
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※店名略称:フィルムスキャンs、通称店名:鈴木写真変電所
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