京急3線区間探訪
海岸電気軌道(前段)と京急大師線、鶴見臨港鉄道

京急の3線区間は川崎大師駅付近から小島新田駅付近と総合車両引き込み線から神武寺駅構内までの2箇所が存在していましたが、現在は逗子線に残るのみとなっています。
 最初に大師線の3線区間を取り上げますが、路線の関係上、海岸電気鉄道まで遡ることにします。
 本ページを作成するにあたり国土地理院の空中写真、地図の承認を得たほか、文献として引用を含んで京急80年史、日野原保様の社内関係文集、サトウマコト様著 鶴見線物語、鉄道ピクトリアルNO.205 吉川文夫様著 鶴見臨港鉄道・軌道線ほか、京浜電気鉄道沿革誌(昭和24年5月30日発行)の本文の引用、参考及び掲載写真の転載させて頂きました。
 ほか、店主調査によるもの、個別に示す資料等を引用・参照させて頂きました。
本文中の(株)は省略
 ※本ページ掲載の地図、空中写真について
 この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図、2万分1迅速図、2万分1正式図、1万分1地形図及び2万分1都市近郊図を複製したものである。(承認番号 平30情複、第1339号) 

■なお、国土地理院の地図は単独或いは貼合わせてトリミングをし、地図活字以外の文字、色線、矢印、着色は店主記載・加工です。
 また、空中写真については国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスに掲載されているものを店主が加工したものです。
■本ページのすべての図、写真は複写・転載禁止です。
海岸電気軌道
<2019.03.18>
 調査ミスでと京浜電気鉄道大師線の鶴見臨港鉄道軌道線の仮説、田辺新田~渡田連絡線関係の記述を補訂、妄想ダイヤを差し替えました。
 お詫び申し上げます。
 

 明治32年1月21日に京浜急行の前身、大師電気鉄道は六郷橋~大師間を開業、その後、京浜電気鉄道に社名を変更、業容を発展させながら新たな鉄道路線の開設を目論んでいた。

■生見尾支線の申請 
 
※以下( )書き、句読点は店主が適宜挿入、仮名遣いも適宜変更部分があります。
 当時の鉄道事業への事業家の関心は現在のIT産業と同じくらい関心の高い「金の卵」と考えられており、主要地間での「路線の特許願」は乱立気味であり、先願特許防御の意味も込めて、開業して11年後の
明治43年に海浜遊覧を目的として生見尾支線の特許を申請した。
 ※特許申請区間は鶴見(総持寺前)~(海浜地区経由)~大森町までの区間
 明治時代は寺社参詣が盛んで、大きい寺社への交通権益を確保しようとする事業は、鉄軌道に参入する者と寺社にとっては輸送人員、参拝者が大幅に増加する双方にとってWin Winの大きな収益源となった。
 京浜電気鉄道の経営実績の重みを付け 「支線」として、総持寺から川崎大師の双寺を海浜遊覧しながらの輸送を目的に申請したが、申請路線は人家まばらな状況で、計画認可されにくい状況であり、これを打開するため追申書も提出したが、既設線への悪影響を理由に
大正5年5月に却下されてしまう。

■ 「生見尾(うみお)」とは?
 明治22.04.01町村制が施行されて「生麦村」「鶴見村」「東寺尾村」が合併して各村から1文字を合わせて「生見尾」村となった。
 大正10年4月1日町制施行で「鶴見町」となり、4年後の大正14年4月1日に潮田町を編入し、昭和2年4月1に膨張著しい横浜市に編入され、同年10月1日、一部地域の区域再編が行われ「鶴見区」として現在に至っている。
※参考:鶴見町Wiki
 

■別会社による路線の申請 
 生見尾支線の申請が却下されたので、別会社を画策して
海岸電気鉄道を興す方向で、生見尾支線申請時の路線を多摩川を渡らない大師に変更した。
 海岸電気鉄道の発起人は大正5年12月25日に「海岸電気軌道敷設願」を申請し、大正8.12.3「生見尾~大師間」の約8.7kmの
特許を取得した。
 
 
取得後に京浜電気鉄道は大正9年5月15日付けで定款第1章第2条3項4を新設「本会社は本会社経営上必要と認める他会社の株式を所有することを得」として、特許取得後の大正9.11.25に子会社として海岸電気鉄道(株)を設立した。 
 ※発起人は全て京浜電気鉄道役員、株式は役員名義で所有、払い込み株金を上回る貸与金も与えた。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
■海岸電気軌道発起人による路線特許申請書の内容
 
(以下申請関係文書は文体アレンジ、要約、双方の文書番号は基本省略)
 神奈川県橘樹郡町田、田島大師河原村から海岸方面は近年多数の諸工場新設、(住宅)戸数も増加、将来も開発余地があり、(現状)では天然の勝景に富んで
陸には鉱泉が湧き、海水清澄な遊覧地として京浜間の一名勝として一般の認めるところなので、神奈川県橘樹郡生見尾村大字鶴見字豊岡を起点として、同郡田島村を経由して同郡大師河原村大字大師河原字中瀬耕地に至る5哩4分(約8.7km)を敷設して一般運輸業を営んで沿岸交通に寄与したく、軌道の敷設特許を頂きたく関係書類を以て奉願(申請)します。とある

■総理大臣宛ての神奈川県知事の副申
 (海岸電気軌道)軌道敷設特許申請の儀に付副申の文書名で(上記の経由路線)は諸工場を建設する者が続出、既に建設終了した工場(旭硝子、浅野造船所、日本鋼管、浅野セメント等列記)付随して漸次居宅店舗の新築を見るに至り、人口、日を追って増加し、交通往来が頻繁になって京浜間の一大工場地が出現する勢いであり、東海道線川崎停車場より田島海岸(後の浜川崎)に至る貨物支線の敷設工事も進み、長年の懸案だった京浜運河も開削も実現予定、川崎運河の開設も既に許可済みとなって本軌道の敷設はその施設計画と相まって益々その効用が顕著となる。
 しかし、極めて短距離なので独立経営が心配されるが、
発起人は皆、京浜電気鉄道の重役または相談役であり、本社も京浜電気鉄道と異身同体の関係を有し、自然将来合併の時機到来を確信するが、この点に深く懸念する。(県としては会社の内容を把握していると言う意味ではないか?)
 発起人の身元調査を省略したが、社会的信用、経験により事業が確実であり、計画上、格別の不備を認めないどころか時期を得た施設と考えるのでここに副申します。
大正6年8月31日 神奈川県知事 有吉忠一  
         内閣総理大臣 伯爵 寺内正毅 殿
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
と言う文書が神奈川県知事から副申文書(本件の場合は認可の応援状として)が発せられている。

<関連事項>
■京浜電鉄の不動産事業として川崎運河事業へ進出→当ページ下方に掲載

■関東大震災
 大正12年9月1日発生
 直後から復興が始まったが、全体的には経済が低迷してしまった。

■総持寺
 石川県輪島市に立地していたが明治31年火災で焼失、明治41年鶴見に移転した曹洞宗の大本山。
 ※福井県の永平寺も同宗の大本山。曹洞宗には2大本山があるものの、総本山は存在しない。
 
 $$$$$$$ 妄想 $$$$$$$
何故、海岸電気軌道出願の路線特許申請書が認可になったのか
 (1)京浜電気鉄道は明治43年に生見尾支線の特許申請して大正5年5月却下されたが申請を諦めず、
   同社役員が発起人となって別会社を企て、海岸電気軌道設立の発起人として大正5年12月25日に初(再度)申請
 (2) 京浜電気鉄道申請却下、海岸電気軌道許可の空白のこの期間、臨海部に企業の進出が大幅な増加を見た。
  
明治41年、浅野総一郎が神奈川県に鶴見川河口の海面150万坪の埋立計画を提出
  ・明治45年1月、渋沢栄一、安田善次郎の支援を受けて鶴見埋立組合を設立し、沖合埋立免許取得
   →
大正3年鶴見埋築(株)設立(埋立組合事業引継)
   大正4年以降、埋立地に大規模企業の進出が著しい状態となった。
 
 ・大正9年1月東京湾埋立(株)設立、鶴見埋築を吸収合併(順次埋立・企業規模拡大)
 産業原料や生産物の輸送手段として大正13年2月23日、
東京湾埋立の子会社として貨物輸送専業の鶴見臨港鉄道の路線特許を出願する等、周囲の企業立地は進み、企業岸壁による海運とともに大量輸送の鉄路の必要も生じた。
■ 行政としては
 企業集積が進んで来たので交通網の必要性を感じていたのだろうが、却下した会社に再度申請させることは周囲に類似行為を煽ることにもなり、「異名会社(中身は同じ)として申請すれば?」の示唆をしたのでは?と店主妄想。
 しかし、認可まで3年もかかっている。
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 海岸電気鉄道開業前の総持寺駅周辺 鶴見T12.10
 海岸電気軌道敷設前の鶴見付近 (国土地理院:大正12年発行 1万分の1)↑鶴見 ↓生麦  
海岸電気軌道の線路の架橋はされていない
 鶴見地区と潮田地区は渡船(上図右下)の渡船か鶴見市場付近の「鶴見橋」迄大回りした。
 明治44年地域の住民有志が金を出し合って、
有料の潮見橋(木橋)を建設した。
 料金を払って、その橋を渡り会社に出勤する社員を見て浅野総一郎が大正5年に橋を買い取って無料になった。
■海岸電気軌道の敷設工事 
 大正9.11.25に海岸電気鉄道(株)を設立後、大正13年10月※より軌道工事を開始したと記述のある文献や (工事)施行認可は大正14年3月3日(ピクNo205)とあるが、どう考えても、鶴見川の橋梁工事や線路敷設がたった3ヶ月で出来るわけが無い。
 ※大正13年10月は(鶴見線物語)より。
 橋梁・橋脚工事は発注を含め、工事自体は路線特許を取得後に子会社として海岸電気鉄道(株)を設立した大正9年11月.25日以降、本格的な用地買収や工事を(震災以前を含んで)開始した考えるのが妥当であろう。
 まぁ、これを言い出すとキリは無い・・・。しかし、京浜電気鉄道が併用軌道を専用軌道に切り替えているのに、併用軌道に建設しているのもなにやら、大師電気鉄道開業時代の亡霊に取り憑かれているかのようである。鉄道認可でないのも・・・。
 ※鉄道→運輸省、併用軌道→建設省と縄張り争いが、新交通開業においてもあるのだから、縦割り適用による権益はすごい。


■ 線 路
 京浜電鉄と同軌間1372mm、架線電圧600Vトロリーポール集電
  京浜電鉄総持寺停車場際を起点として基本は里道、県道※を併用軌道を基本としたが
専用軌道区間は3区間を数え、
 (1) 総持寺から潮田電停の拡幅前の地点まで、
 (2) 浜川崎貨物線乗り越しのための専用軌道を田辺新田から鋼管前とセメント前停留所の中間まで
 (3) 出来野耕地から京浜電鉄大師停留場前まで
と意外に専用軌道区間がの割合は大きかった。

 
※昭和11年9月25日、主要地方道(俗称産業道路)神奈川県道6号田島羽田線、田島鶴見線に指定

■海岸電気鉄道の開業

  関東大震災に遭ったものの、工事が進み、
 (1) 大正14年6月5日に総持寺~富士電機前が開業。
 (2) 大正14年8月
19日に反対側の大師~浅野セメント間を開業。
 (3) 中間部の富士電機前~浅野セメント間を同年10月16日に開業
 で全通を見た。 


■車両
 開業にあたって、必要な車両は京浜電気鉄道が全車譲渡した。
 京浜電気鉄道は車両の大型化と半鋼製化を進めており、創業期のかほりのする木骨木造製の「木造単車」のほぼ全車、続く「木骨木造ボギー車」の大多数を金も掛けずにお下げ渡し出来て丁度良かったのではないか。
 しかし、書類上は下記の方法であった。
 吉川様の調査
以下※1によれば、大正14年7月23日に京浜電気鉄道で4輪、ボギー客車合計19両の廃車認可が行われ、海岸電気軌道では約1年前の大正13年12月26日付で京浜で廃車になる車両の設計認可を取得して、書類上、新製車として海岸電気軌道に加えられた。
 
<妄想> 大正13年代になって4輪単台車、同時にボギー車の設計申請→認可とは常識的におかしいなぁ~。阿吽の呼吸・・・。
 書類上の新造車(実際は譲受)は以下の通り                                 
 
●木骨木造車体 4輪電動客車 元京浜1,2,6,7,9,11,13,14,18号 計9両を1~9号に改番
  譲渡時に車体の一部に鋼板を貼った車両もあって、※電動貨物の譲渡条件と同じと思われる。
  全長(最大)7.62m、自重7t、定員42人
  出力(1~4号)30馬力(500V)×2,5~925馬力(同)×2
  台車は単台車は通称ブリル21Eとペックハムと写真判定されている。 
 
●木骨木造車体 ボギー電動客車 1号形 1~10号 計10両 
   車体長13.4m、自重20t、定員76人
  1号形は京浜電気鉄道時代に25両製造され、モーターは4個装備だったが、路面電車なら?と2個にされた。500V50馬力/個
  余剰モーター合計20個は京浜の何れの車両保守または新造車に転用されたのだろうか。
  京浜電気鉄道時代に
改番された車両も存在したようで、前面屋根形状の違うNo16がNo5,No2等に改番された形跡有りと吉川様は記述されている。
  事故でも起こし、屋根を再改造したかは不明だが、連続番号で製造されたはずなのに、海岸電気軌道に入線の2号車だけが京都のN電のような形状の屋根(京浜電気鉄道1号型増備の16~18号が同類屋根)になっている点から、改番または車体を振替をしたのだろうか。しかし、当時のレベルで振り替えするなら改番とも思える。
  製造時と同一車体、同番号であれば、明治37.9竣工の我が国最初の木骨木造ボギー電動車1~10号(M38.11ロング化)は80人乗りセミクロスシート車で大塚工場製である。
 
●木骨木造電動無蓋貨車 2両、無蓋附随木造貨車 ※下記に記事

鶴見臨港鉄道に吸収合併までの車両の動き
  
昭和2年までに4輪単車全車休車
  ※書類上、新造扱いの木骨木造4輪単車は入線から、ほぼ2年を経ずして休車になった。 

■車両の留置
 海岸電気軌道に車庫は無いので、単車も含めて総数20両超えの車両を狭隘な総持寺駅を含め、留置する場所はないと思われ、書類上移籍したが、特に単車は最初から海岸電気軌道社紋に書き換えられて、京浜電気鉄道のどこかの留置線の片隅でひっそりとしていたのではと思われる。
 
■車両の検修保守
 車庫を持たず、京浜電気鉄道の生麦車庫、川崎車庫まで自走あるいは牽引されて行った。この時代は本線もポール集電。
 
↑単車(穴守線使用) ほぼ同型が移籍したと思われる。(京浜電気鉄道沿革史 「原版高松氏所蔵」クレジット記載写真)より
 
 ↑海岸電気軌道に使用されていた木骨木造ボギー車(京浜電気鉄道沿革史 「原版高松氏所蔵」クレジット記載写真)より。総持寺駅と思われる。
台枠も若干反らせているのと、ターンバッックルで台枠を締めて荷重に耐えるよう車体が弓なりになっている
 
 ↑吉川様指摘の屋根が異なる木骨木造ボギー車2号(京浜電気鉄道沿革史 「原版高松氏所蔵」クレジット記載写真)より 
この車両が撮影された車庫は川崎、生麦?それとも海岸電気軌道に幻の車庫?背後の専用軌道は?
 総持寺駅の構内配線と架線推測
京浜電気鉄道への連絡線があったのか?及び確実な構内線路の配線は写真でしか特定できていません。
海岸電気軌道の概略沿線地図と航空写真 
 
 ↑地図2枚を合成しようとしたが双方ギリギリで繋いでもちょっと隙間が・・・(鶴見S05.03.30、生麦S05.11.30各1万分の1)
※上下の図のトリミング縮尺は正確ではありませんが線路だけは近接させました
軌道線 総持寺付近 S05.11地図  
(割り込み!) 川崎競馬場について
 
 ↑昭和6年2月発行(大正11年測図、昭和3年修正測図)の1万分の1「川崎」 右の競馬場は未だ無く、左上の富士紡績工場はある。
 下の地図を見て頂くと右側に競馬場(黄色着色)が示されている。
 地図左側中心の黄色い円は川崎区のwebサイト「かわさき区の宝物シート」で、明治39年、この場所に板垣退助を社長とする京浜競馬倶楽部が出来、全国の競馬ブームが過熱して、国の政策により開設僅か2年で「馬券発売禁止令」が出され、正味開催15日間で閉鎖された。とある。
 その跡地を富士瓦斯紡績に売却、大正4年に操業を開始したが昭和14年に東芝に買収され工場になり、その後、戦災で被災した東芝工場を川崎市が買い取って競馬場に再建したとある(要約)
 それでは、昭和7年10月31日発行の地図(2万5千分の1)
の右側に記載されている競馬場は一体??
 そして1年前の
昭和6年2月発行(大正11年測図、昭和3年修正測図)1万分の1の地図には競馬場が無い。
 修正測図の昭和3年以降、昭和7年要部修正測図、までの間に「川崎競馬場」を開設したことになる。
 昭和11年の空中写真にも競馬場がくっきり残っている。

 鶴見臨港鉄道軌道線も川崎競馬場(臨時)を設置して開催日に臨停した。さてこの競馬場の所有者の正体は??
 この地図で見る限りの海岸と畑地、水田の地域の区間でどれほどの乗客が期待出来たのか? 
 ちなみに昭和22年7月30日発行の2万5千分の1「川崎」では無くなっている。※次回に、この部分を含めて別掲します
 ↑大正6年測図昭和3年第2回修正測図、同年4月鉄道補入、同7年要部修正測図の履歴がある昭和7年10月30日発行の2万5千分の1「川崎」
空中写真S11.09.12競馬場バッチリ写ってます。
 しかし、競馬場側は荒れ地、水田、直ぐ海。乗客がいるわけ無い
鶴見臨港鉄道電車案内には、「競馬場前仮停留場は京浜間随一の設備完全せる競馬場は当停車場より東約一丁のところに有り、開期中開設」とある
 
海岸電気軌道の沿線を見る
1万分の1昭和4~6年発行1万分の1地図より
 停留所・駅名は原則地図に掲載されているものを別途拡大記載しました
 
 ↑海岸電気軌道線路。黄色部分は専用軌道
貨物専用とし開業した鶴見臨港鉄道。
 ↑位置不詳ながら田辺新田電停(この時点であったのか不明)から築堤を駆け上がり
浜川崎支線をオーバークロス。駆け下って鋼管前電停の右端まで専用軌道(黄色部分)
道路、鉄道交差部分の表記がわかる。
鶴見臨港鉄道の停車場案内より抜粋 
池上新田:付近に有名なる釣り堀多々有り(総持寺より17分半とある。)
塩浜:釣り魚、潮干狩りの好適地として知られる
出来野:釣り堀加藤の池は東南約5丁 ※川崎大師駅までは総持寺より24分
※この3駅に向けて「銀鱗号」を運転すれば、さらに早朝、昼間の釣り客が増えたかも??
 三浦半島の釣りは「横浜横須賀道路も無い頃」電車で行くのがブームだった。
 早朝の特急に「銀鱗号」の看板を付けて運転した。
 午後の電車は釣帰りの客の「すえた潮と汗臭い」匂いが車内に充満した。
   ↑海岸電気軌道の出来野から川崎大師までは専用軌道部分(黄色)
何と地図が線路沿いで終わりになって「至羽田」等になっている。
総持寺駅付近の地図も同じでギリギリでチョットだけ繋がらない
停留所名 について
 S4~6発行の1万分の1
地図上の表記の電停
 総持寺、無記入(潮田?)芝浦製作所前、下新田、富士電機前、鋼管前、セメント前、池上新田、塩浜、出来野、大師河原、大師(12駅)
 鶴見臨港鉄道
(沿線案内S9年頃)
 総持寺、鶴見川、下野谷、潮田、入船、寛政、下新田、富士電機前、田辺新田、田島、浅野セメント前、池上新田、塩浜、(競馬場前仮)、出来野、大師河原、川崎大師(16駅+1仮停留場)
 大師線との直通運転について
 ■京浜電気鉄道大師線と直通運転
 大正14年5月13日付で「連絡運転認可申請」が京浜電気鉄道・海岸電気鉄道両社名で内務大臣若槻禮次郎、鉄道大臣仙石貢宛てに出された。ちなみに京浜電気鉄道・海岸電気鉄道の所在地は川崎市堀川町25番地で同一である。
 以下、店主現代風に文書をアレンジして、句読点については適宜挿入しています。
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<京浜電気鉄道発文>
 既設京浜電気鉄道川崎大師間1哩3分と近く運転開始の見込みが有る予定(有之候)の海岸電気軌道総持寺大師間5哩9分とを連絡して、乗客の利便をはかり僚車車両を交互に直通運転することと致したくお願いします。(致度候間御認可被成下度奉願上候也)

追記(追而)
海岸電気に直数すべき京浜電鉄所属車両は同社大師線に運転し得べき車用のみとして、海岸電気軌道所属車両と同一形式(譲渡車なので同じ・・・。)にして僚車車両共車輪一対の軌条面最大圧力は13,480ポンド(封度)なり。※約6,114kg
 ↑この文書の用紙と申請人、普通だったら、なんかおかしくないですか?
  <神奈川県知事(経由文書)>
 大正14年5月21日付けで神奈川県知事より鉄道大臣仙石貢宛て文書が発送された。
 ※別文書で同様に内務大臣宛にも出されている。
 鉄道大臣仙石貢宛てに「連絡運転認可申請の件」として
 本月13日付京浜電気鉄道並びに海岸電気軌道より主題の件認可申請が有り、この調査をしたところ、本件は京浜電気鉄道川崎大師間1哩3分と海岸電気軌道総持寺大師間5哩9分とを連絡して乗客の利便を図るものとして、運転車両は僚車同一形式のものなので、別段支障が無いので認可するよう(鉄道大臣に書類と共に進達)書類と一緒に申し上げます。
と神奈川県経由文書の知事決済が行われ、鉄道大臣宛に送達された。
<鉄道大臣、内務大臣の決裁結果(神奈川県経由)>
 京浜電気鉄道
 海岸電気軌道
 大正14年5月13日附京丒運第163号申請直通運転の件認可します。
  大正14年9月9日
   鉄道大臣 仙石 貢
   内務大臣 若槻 禮二郎
------------------------------------------------------------
<鉄道省内部で決済までの質問について>
 5月13日から 許可文書が発せられる前まで以降、鉄道省から下記の内容を回答せよと京浜電鉄・海岸電気軌道宛てに書類の提出を求めた。
内部のやりとりの文書中には
 土木に関して支障は無い 
 技術は整理の上支障無しと認める
 等が記載されている。
 京浜・海岸の回答は下記のとおりだが、ワープロ、複写機が無い時代、全部ペン筆書きというのも大変な労苦である。間違えれば一文字削除、一文字訂正等を記載しなければならない。消しゴムやDelキーは無い時代・・・。
-----------------------------------------------------------------------
<鉄道省の質問内容>
 車両左記照会を要す
 一、 大師線運転車両の設計認可年月日番号を明示すること。
 備考 海岸電気軌道からも同じ回答の必要あり。

<京浜・海岸の回答書> 
 明治37年7月21日 ボギー車十両構造認可
 明治38年5月31日 ボギー車5両増設認可
 明治39年4月11日 逓信大臣へボギー車5両増設届出す
 明治39年12月8日 逓信大臣へボギー車5両増設届出す
 大正4年11月26日 四輪客車構造変更認可
          幅員7呎9吋の為大師線運転不認可
 大正5年 7月22日 同上4輪客車大師線運転認可
 大正 8年 6月 3日  明治39年12月8日届出ボギー車の内1両構造変更認可
 大正12年2月23日 明治39年4月11日及び明治39年12月8日届出ボギー車両の内7両、車台、電動機、制御器変更認可

 大正2年4月22日 四輪電動貨車1両7噸積7両4噸済み4両構造認可
 →右欄へ
直通運転について決裁文書に係員が説明のためだろうか、略図が示されている。総持寺ではなく鶴見がご愛敬 
 ←左欄から
 大正3年4月14日  四輪電動貨車1両増設認可
 大正3年10月12日 四輪電動貨車1両増設認可 
 大正10年1月18日 ボギー貨車2両構造認可
 大正11年 7月 4日 ボギー貨車4両構造認可
 大正12年 6月 1日 ボギー貨車1両構造認可
 大正13年12月25日 ボギー貨車1両構造認可
と回答している。
 大正14年時点の京浜電鉄の初期の4輪単車等の車両は事実上、大師線に封じ込められているので支障は無かったのだろう。
 大正5年 7月22日 同上4輪客車大師線運転認可の車両は明治36年9月現在Mc20両、T15両のうちの何両かが車体幅がオーバーしていたようだ。どこか切り詰めたのか(ステップか?)おでぶな譲渡車は上記に記載の車号なので混じっているかも
 四輪電動貨車とボギー貨車8両も申請されている。
 線路自体は昭和8年4月14日川崎~大師間を京浜電気鉄道が1435mmに改軌するまで、鶴見臨港鉄道軌道線なっても繋がっていたと思われるが、直通運転は行われなかったのでは無いか??
 併用軌道上を貨物列車が走った??
 ■京浜電気鉄道の貨物運輸について
 京浜電鉄は大正10年6月から貨物営業を開始しており、国鉄との荷物の発送、収受のやりとりに国鉄川崎駅(貨物取扱所)と京浜川崎駅間に貨物側線)を敷設して大正14年7月7日に営業を開始した。
 大正14年12月2日特許を取得で開業日のほうが先行しているのは、
貨物営業線を路線認可前に川崎駅から単純な貨物側線として延長したか、側線だとその区間の増運賃が加算できないためと思われ、同年7月に貨物営業線に変更したので、後出し申請では無かろうか?。
 もし、国鉄川崎駅(貨物取扱所)との間に営業開始の大正10年6月から開業日まで側線が無ければ、京浜電気鉄道の貨物は川崎駅で荷馬車に積み替え、国鉄川崎駅(貨物取扱線)まで馬が馬糞落としながら運んだのか、トラックを購入していたのかであると思われる
  
 
   ■京浜電気鉄道の電動貨車
 <無蓋4輪電動貨車・無蓋付随貨車>
 明治35年当時車籍のない無蓋貨車3両を所有していたが、その後附番されて下記になったかは不明
 大正2年5月 4輪無蓋電動貨車1号   3t積 木造車が存在確認されている
        4輪無蓋付随貨車1~4号 7t積 ,   同  上
          同  上  5号  4t積    同  上
 大正3年    4輪無蓋電動貨車2号   3t積 木造車
の7両が在籍していた。
 想像だが、電動無蓋貨車や無蓋付随貨車は廃車になった4輪車の台枠に囲いをつけた車両はなかろうか

 また、無蓋貨車ばかりなので軌道補修や工事のための砂利や土砂運搬が主任務だったのではと想像される。

 <無蓋・有蓋貨車>
 大正10年6月 ボギー電動無蓋貨車 2両 7.5t積 木造車 1001、1002号         藤田分工場製
 大正11年     同    上   4両  7.5t積 同 上 1003、1004、1005、1006号  同  上
 大正12年   ボギー電動
有蓋貨車 1両 7.5t積  同上 1007号             同  上
 大正13年   ボギー電動
有蓋貨車 2両 7.5t積  同上 1008、1009号        横浜船渠製
 大正13年   ボギー電動
無蓋貨車 3両 7.5t積  同上 1010、1011、1012号      横浜船渠製 
   スマホが流行っている現在は一般人を含めて、あっという間に写真を撮影されて(会話録音も)ネットに掲載され、拡散し、或いは監督官庁にチクルられる。
 この時代は「趣味者」もゼロに近く、スマホは無く、カメラすら庶民には無いも同然、頑丈な三脚立てて、暗箱カメラで撮影などは出入り業者ぐらいの世界。
 拡散、通報手段も電子メールやインスタグラム、youtubeもなく、手紙以外にないので、「拡散」など考えられない。
 時代的に組織ぐるみで「ツーカー」が当たり前で、省庁が監査をしたあと懇親会などが店主の知る限り昭和の時代まで有ったことを考えると(全てとは言いませんが)、双方ともおおらかであったことは違いない。
 
大正14.2.28発行地図の状況では連絡線(朱色)は未だ着工されて無いが、大師線のループ跡らしきもの(黄色)残っている
 ↑S6.2.28発行の地図には連絡貨物線が記載された。大師線は別路線扱い(線路は繋がっているはず)
海岸電気軌道貨物輸送
 海岸電気鉄道では電動無蓋貨車を京浜電気鉄道から2両譲受して、開業と同時に貨物運輸を行った。
 貨物は変電所前(浅野セメント前にその後改称)と総持寺の2箇所で扱った
(大師は京浜電気鉄道)
 道路上を上記の直通認可の四輪電動貨車や無蓋車を連結してゴロゴロ走った風景は、いかなるモノであったろうか?一番の大型編成は下記の木造木骨ボギー電動貨車+ボギー無蓋貨車の編成ではなかろうか。
 しかし、鶴見臨港鉄道(株)が大正15年3月10日に浜川崎~弁天橋間を開業して、1372mm貨車と1067mm貨車が川崎貨物側線で積み替えを要しないことになり、かつ、浜川崎、鶴見臨港鉄道経由の貨車が各工場の引き込み線に入って直接受発送を行う事になったため、需要はあっても1年に満たなかったのではないだろうか。
 鶴見臨港鉄道開業の予測は当然出来たのだろうが、実需期間が1年にも満たないような中で何故、営業を行ったのか不思議である。
 京浜電気鉄道も川崎貨物側線は昭和7年に営業をやめ、昭和13年7月に貨物運輸は全廃され、川崎貨物側線の廃止手続きが取られた。
 
日本では珍しい軽便鉄道から国鉄へ貨物を積み替える1372mm逆ゲージ版である。
 京浜電気鉄道の実需は、味の素のような国鉄連絡線に直接の接続がない工場の需要しかなかったのではないか?
 
  ■電動貨車の海岸電気軌道に譲渡 について
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<京浜電気鉄道発文>
 今般弊社所有電車中、ボギー電動無蓋車弐両
 大正11年7月4日付 認可3両の内1両
 大正13年12月21付 認可1両

 海岸電気軌道に譲渡したく御認可願を関係書類を添えてお願いします。
 車両譲渡条件として
 車両状態 譲渡後引き続き使用に支障無き様必要なる修繕加工をして引き渡すものとする
 譲渡価格 金額は4万円 但しボギー貨車1両2万円
 譲渡期日 譲渡認可の日
 大正14年5月23日            
   京浜電気鉄道 社長 青木正太郎
  
   鉄道大臣 仙石 貢 殿
   内務大臣 若槻 禮二郎 殿
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 ※この発文文書において、具体的に第1011号、第1012号と記している部分に抹消線が引かれ、12字削除50字加入として記されている
 ※本稿では認可番号を省略しているので字数が違う 

<上記文書の続き>

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<神奈川県知事(進達経由文)>
 本年5月23日付京浜電気鉄道より車両譲渡認可申請を調査した結果(調査候處)本件は大正13年12月25日付で増備認可となった(相成候)ボギー無蓋貨車2両を今回海岸電気軌道へ譲渡するものなので別段支障無いと認可相成り、この書類を進達候也

  大正14年6月24日
             神奈川県知事 淸野 長太郎
 鉄道大臣 仙石 貢 殿
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 当時の県はちゃんと調査していたのか?国としては県に「動きを知っとけよ」の経由指定だったら、いちいち面倒臭~ぃ
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<鉄道省回答>

 (神奈川県経由)京浜電気鉄道大正14年5月23日付け申請車両譲渡の件認可する

  
   鉄道大臣 仙石 貢 
   内務大臣 若槻 禮二郎 
 
海岸電気軌道 譲渡ボギー電動貨車のナゾ
 譲渡申請文書(上ページ)には抹消線で消された最新形の1011号、1012号の文字があり、一体何号が譲渡されたのか、なにやら怪しい。
 
同2両は未認可車両大正14年8月に増備届を出したと80年史に記載がある。
  譲渡申請書で車号を削除(当時は見え消し)をして、提出前に
未認可車両でヤバイと思って訂正したのか、鉄道省の担当者が照合中に「んん??既提出書類にはこの該当番号の車両がないぞ」と気が付いて、京浜側で慌てて別の車両を仕立て認可3両の内1両大正13年12月21付 認可1両として、申請文書を鉄道院に担当者が直し(手書きで直している)に行ったのか?
 提出前なら多分、用紙を引き裂いて?全文書き直すのが普通ではないか?
 最初に車号で書いておきながら、
「認可3両のうち1両」で番号が消えているのも怪しい。鉄道院担当者の温情か
 のちに一部車両の番号変更をした(80年史)というのもさらに怪しい
 軌道線車両にS12.09.07付で形式称号が附番された。この時代あたりまで軌道線車両の形式称号は義務づけられてなかった。その遙か前のこの時代に認可書類に「番号記入は却ってダメ」だったのかも知れない。
  しかし作成担当者がそんなこと知らないわけも無さそうだし。

 なお、本文書には「譲渡後引続、使用に支障無き様、必要なる修繕加工をなし引き渡すものとする」の一文が入っている
 そんなこんなの電動無蓋貨車であるが、海岸電気軌道廃止後に同番号で玉電に移籍した。とある。
 実際は上記の関係で京浜電気鉄道の貨物廃止に伴って、海岸電気軌道から抹消線の車両が玉電に行ったのか?
 その辺が不明。くどいですが、ほぼ新車を海岸電気軌道に回すこと自体が・・・・。
海岸電気鉄道の幻~!の支線? 
■京浜電鉄の不動産事業・川崎運河事業へ進出
 大正6年3月5日会社の定款第1章第2条3項を「土地経営運河事業其他」を含むに変更、鶴見・川崎の海岸で造成された工業用埋立地に憧れを抱いた土地の所有者をとりまとめ、海運利便な東京湾に接続した運河を軸にした工場用地を造成して販売する計画であった。
 土地自体は湿地が殆どで葦が繁茂したりする耕作不適地であった。
 ●当初の運河の概要
  ・延長 2.5km
  ・幅員 河口から909mは河底幅員が27m、最奥は18m
  ・水深 河口部干潮時2.4m、最奥は2.1m
  ・橋梁 幅員3.6mと2.7mの道路橋を架設する
 ●京浜国道の新ルートで計画変更
  大正7年、政府は、品川八ツ山橋を起点に横浜青木町に至る21.6kmの京浜国道の改修を決定、運河は新たに建設される国道の新ルートで横切られるため、運河計画を変更した。このため川崎運河の終端部分は短縮されて形状を変更した。
 ●計画変更後の運河の概要(大正9年) 
  ・延長を2.4kmに短縮(▲109m)
  ・幅員 河底幅員を全て27mに統一
  ・水深 当初計画通り
  ・終端部分に幅91m四方の船溜(転回施設兼)を設置
 川崎町の工業施策の一環としても期待を背負う形でと自社資金にて川崎運河の開削を大正8年12月に着手、上記の変更を行いながら、旭運河を起点として延長2.4キロの運河を大正11年5月に完成させた。
 
■ 海岸電気鉄道の支線?
 大正14年12月に川崎運河に沿って海岸電気鉄道(支線:名称など未調査)は軌道敷設特許を取得した。
 ※申請は関東大震災以前と思われる。
 しかし、関東大震災、昭和恐の影響もあって工業用地としての売却は進まず、宅地として販売に転化、川崎側は「京町」、横浜側を「浜町」(現在:平安町)とした。
 この結果、運河は日本鋼管から排出される鉱滓の捨て場として、一部が買収されて埋め立てが進み運河は1980年代に消失した。
 輸送需要の見込めないまま、海岸電気鉄道(支線?)の軌道特許はS5.07失効した。
 ※経営は支線を敷設するどころでも無かった。

<隔世の感のある挨拶>
 運河完成時に開かれた「川崎運河期成同盟会」での京浜電鉄社長の挨拶で
 「璽今以降本社は推定工事を進め、その敷地に向かって多数の工場を誘致し萬れい千基の煙突は黒濛々たる煤煙を東京湾上に注がしめ、東洋の倫敦を指目の間に現出セシムルは敢えて多事を用世辞」
 との挨拶があった。店主としては「犠牲によって進化する」の産業界の証人たる、立派な挨拶と感心した。
<本項について>
 土木学会土木史研究第15号 伊東孝 様著「消えた川崎運河」から一部引用、並びに「川崎運河wiki」を各参考にさせて頂きました  
↑  T12.10.5発行1万分の1 海岸電気鉄道の支線は未成線で終了
鶴見臨港鉄道の誕生
 ■鶴見臨港鉄道の誕生
 鶴見・川崎臨港地域に立地する企業の貨物輸送を目的として
 (1) 大正13年2月12日に鶴見臨港鉄道発起人が浜川崎~潮田、末広町1丁目の路線許申請 
   ※発起人は沿線立地企業中心
 (2) 大正13年4月26日 貨物営業路線路線免許
←異例の速さ
 (3) 同年7月25日 鶴見臨港鉄道設立 (初代社長)浅野総一郎
 (4)大正15年3月10日に浜川崎~弁天橋間が開業して貨物郵送を開始した。
 しかし、線路を建設中の)大正14年2月4日付で弁天橋~国鉄鶴見間の延長と旅客営業を申請、
 同年11月24日条件付きで認可された。←異例の速さ
 ※海岸電気軌道は大正14年10月16日にやっと全線を開業したばかり
 番外話として上記(3)の申請計画の時、下記の図のように国鉄貨物を受け渡しし易いよう鶴見貨物駅に乗り入れるよう計画したが、京浜電気鉄道を乗り越す高さと地平との勾配が急すぎて、貨物は浜川崎のみで収受として客扱い専用とした鶴見駅西側に変更した。
■昭和5年10月28日に延長区間の鶴見(仮駅)を含む全線を600V電化を行って旅客輸送を開始した。
 海岸電気軌道発起人の生見尾線申請の前後は 鶴見・川崎臨海部への企業進出意欲は非常に高く、海岸の交通網を充実させたい、県及び国の意向が動き出していた?
 例えば(以下東亜建設工業のWiki引用含む)
 明治41年浅野総一郎が神奈川県に鶴見川河口の海面150万坪の埋立計画を提出、明治45年1月渋沢栄一、安田善次郎の支援を受けて鶴見埋立組合を設立→沖合埋立免許取得→大正3年鶴見埋築(株)設立(埋立組合事業引継)→大正4年末に7万坪の第7区が完成、旭硝子(2018.07商号をAGCに変更)に造成地の一部を売却した。
 さらに大正9年1月東京湾埋立(株)設立、鶴見埋築を吸収合併、大正13年2月23日、関連会社として貨物輸送専業の鶴見臨港鉄道の路線特許を出願している。その後計画を含め埋め立て、海運や陸路の便が良い埋立地に工場立地が加速していった。
海岸電気軌道を鶴見臨港鉄道が吸収合併して軌道線に 
  開業以来、海岸電気軌道の輸送実績は両終端に「総本山」の2寺院があっても、沿線の人口が希薄なこと、開通直前の大震災、昭和恐慌のため工場通勤の乗客が増加せず赤字に苦しんでいた。
 具体的には営業係数が開業以降4年間100を超え、昭和3,4年は76、62と改善したが、営業収入の伸びが殆ど無く、昭和4年、親会社の京浜電鉄は負債額を融通した。

■鶴見臨港鉄道軌道線として再出発
 鶴見臨港鉄道は貨物営業で事業を開始して、その1年後の大正14年2月4日付で弁天橋~国鉄鶴見間の延長申請を行うという、ある意味、超優越的な地位で営業開始直後の海岸電気軌道の経営を脅かす存在となった。
 <海岸電気軌道にとって>
 ・拡幅前の狭い道路を走る路面電車が、専用軌道の大型高速車両にはかなう訳ない
 ・始発駅が総持寺駅のため、国鉄通勤の利用者の利便を図れる状況ではなく、
  大師側に至っては塩浜辺りまで大工場の立地は無い状況
 ・車両は京浜電気鉄道のお下がりで、親会社は半鋼製の新車を投入中で譲受、投入できる状況では無い。
  ※バスが発達を始めて川崎、鶴見駅から直線的に工場地帯へ旅客輸送を始めた。
 このような状況の中で親会社の京浜電気鉄道は、鶴見臨港鉄道の鶴見への路線延長の申請付帯条件として「海岸電気軌道からの買収または合併を求められたときはこれを拒み得ず」と書かれた条項に、
伝家の?宝刀を抜いて海岸電気軌道を切り捨て、昭和5年3月29日鶴見臨港鉄道に海岸電気軌道を吸収合併してもらった。
 京急80周年誌も鶴見臨港鉄道に関する記載は極少なく、鶴見臨港鉄道に吸収合併された以降のことは、京急とは関係なくなっているから当然と言えば当然であるが、一切の記述をしていない。海岸電気軌道の廃止の時期もガン無視。
どうも
京浜電気鉄道の経営上の「黒歴史」?社史製作側が忖度シカトか。社史では冷遇。
 ※京浜電気鉄道沿革誌も同様

 <吸収合併の条件>
 鶴見臨港鉄道が鶴見仮駅までの延長申請、旅客営業許可の際に付帯条件として「
海岸電気軌道からの買収または合併を求められたときはこれを拒み得ず」を付加されたが、この条件を付させたのは、劣勢になるのが判りきっている海岸電気軌道(京浜電気鉄道)が神奈川県、鉄道院に対して、切り捨て策が少しでもうまく行くように強力な陳情を行ったのではないか? 
 鶴見臨港鉄道は浅野財閥の直系の企業であり、一方の海岸電気鉄道の親会社京浜電鉄は安田系金融機関(後の富士銀行、芙蓉グループ)と深いつながりがあり、鉄道省に付帯条件を付けて貰うほかに、水面下でそれなりの話し合いが行われたのであろう。
 
 鶴見臨港鉄道 軌道線の車両
 昭和5年3月1日に鶴見臨港鉄道に継承された車両は、京浜電気鉄道の木骨木造ボギー車の1号形9両であった。
 明治37年に製造された台枠より上がオール木骨・木造のボギー車は合併時に経年27年、京浜電気鉄道では路面軌道の凹凸激しい線路や専用軌道を激走しており、海岸電気軌道でも泥んこ軌道凹凸の中を走っていれば、車体に緩みが出てガッタガタになのは明らか。
 木骨木造車は溶接が出来ない。木工用ボンドも無い時代、せいぜい、傷んだ部材の切り接ぎか、緩んだ接合箇所にクサビ打ち、カスガイや釘の打ち直し、台枠のタレはトラス棒のバックルを締め上げるテイでの保守がせいぜいでなかったか。
 鶴見臨港鉄道の経営陣は近々軌道線を廃止することが判っていても、さすがに安全保安上、半鋼製の新造車を増備せざるを得なくったようだ。
<製作されたのは4両>

 ●第1次車
  20形 モハ21、22
  昭和7年 汽車会社製 全長12.8m、自重19.3t、主電動機54kw×2
 ●第2次車
  30形 モハ31、32
  昭和9年 汽車会社製 全長12.8m、自重17.2t 主電動機48.2kw×2 台車形式KSK-C 

2019.03.18<資料を検討した結果、大師止まり、渡田折返入り
の妄想ダイヤに差し替えました>
昭和9年当時の運転は
 
総持寺~大師間が所要24分で18分ヘッド、総持寺~渡田間(鉄道線駅)が18ヘッド、大師賽日、競馬開催日等は5分ないし9分毎、総持寺~渡田間は朝夕6分間隔で運転したが、途中の折返は「田辺新田」では無く、「渡田」となっています。
 連絡線で鉄道線の渡田駅に別線で乗り入れたのでは無かろうか?の状況です。
 通勤者の乗り換え便宜を図った部分があるかも知れません。
 ↑仮定妄想ダイヤ 
take-okm様のOUDIAを使用して作成いたしました御礼申し上げます。
●必要運用本数の算出
 京浜電気鉄道大師線改軌前の軌道線所要24分、田辺新田~渡田間を90秒として妄想ダイヤを引いて検討しました。
●条件
  (1) 両端の終着駅は常時1線使用(写真判定)
  (2)渡田駅は渡り線の配線が不明だがまぁ・・・。
 当時の運転は現在のように交通信号がほぼ無い状態とおもわれ、保安機械や緻密な規則がんじがらめではなく、客扱いも「さっさと乗降せいや!」的な、カスタマー満足度が100%以上微塵も無いと思われるので、店主的には、データイムは飛ばしまくりOK!の幼少期、西鉄北九州線体験ベースの妄想ダイヤです。
●吸収合併後も大師~川崎間の直通運転を行っていたのか
 鶴見臨港鉄道になっても直通運転したのか?昭和9年頃と言われる鶴見臨港鉄道の沿線案内図には大師で接続になっている状況。
 直通運転は昭和8年4月13日まで書類上は1372mm軌間で運行していたので、この日まではありえますが・・・。
 入っていたとすれば20形が唯一直通運転に加わったのかも知れません。←あり得そうも無いけど・・。
 直通運転の記録や調査発表が店主の「か弱い調査力」では見いだせませんでした。

 店主的な結果は
「鶴見臨港鉄道軌道線になってからは、直通運転はやっていない」とします。(乗務職員は移籍か?)
●自社線内と直通(一応の妄想)と運用本数を比較しました。
 データイムは妄想の結果、総持寺~大師+総持寺~渡田の運用本数は5本となります。
●新造数4両は
 自線内のデータイムを充足する最低両数に不足はありますが、安全保安の確保に痛みが進んだ車両を代替するために2年掛けて最低限の4両で終わらせた?
 臨港鉄道線が鶴見仮駅まで開通してから輸送需要はガタ落して、運転本数を減じてやりくりしたのでは?とか、さらに「廃止届け日以前に実質運行をやめて、バス化していた」と記憶を語る記載もあるが、確たる日時場所の記載は無い。 
 ※吉川様のモハ20形の記事で昭和12年1月に22号が鉄道線へ移籍とあり、廃止を前に減便を行って余剰なのか、鉄道線が逼迫か?
 ということで鶴見臨港鉄道最初で最後の軌道線用モハ20,モハ30が4両がフル稼働、不足分は1号型が出庫して運行? 
■ 車両の保守
  鶴見臨港鉄道に吸収合併されたあとも、昭和6年5月1日に連絡線を敷設して鉄道線渡田駅に乗り入れ、自社検修になるまで京浜電鉄が保守の面倒を見た。
  この際に鶴見臨港鉄道鉄道線に3線軌条誕生??
  ※この時点では京浜電気鉄道本線ではS8.4.1竣工に向けた改軌工事が行われていて、元京浜電鉄の木骨木造電車は京浜の車庫まで回送でなくなり、田辺新田~渡田間に200mの連絡線を敷設し(昭和6年4月23認可、同年5月1日)を作って稲荷橋車庫で検修を行ったのであろう。
■ 渡田駅までの営業と車庫までの3線区間(?)と架線構造のナゾ
 連絡線は1,372mmで渡田駅まで営業。入庫の際は方向的に車庫に向かって逆走する形となり、鉄道線を走行するとなると1067mmの3線軌条が一部敷設されたのではと思われる。
 車庫まで1,372mm線が別途敷設されていれば全く問題ないのだが。
 また、架線電圧は同じ600Vでも軌道線はポール集電、鉄道線はパンタ集電なので、ポール集電は分岐部分の架線構造が違うことから、パンタ集電に支障の無いようポールを鉄道線の架線に載せ替える等の方法で入出庫したことが想像出来る。これも別線ならば杞憂・・・。

■ 珍しい一市3軌間併存
 一時的に1067mm、1372mm、1067mmの3種の軌間が川崎市内で存在した。東京等の大都市は例外として
 軌道線の廃止
軌道線の廃止
 
併用軌道上の産業道路の拡幅が計画されて、道路管理者から廃止を打診されたのか、自ら好機と廃線決定したのか定かでは無い。
 しかし、現実は営業を続ける収支では無かったので、廃止するには好都合な時期ではあったはず。

  昭和12年11月末を以て軌道線の総持寺~大師間と田辺新田(軌道線)~渡田(鉄道線)間の連絡線の営業を終了。
 12月1日付で廃止になった。
あっけない約13年の運行期間であった。

■ 廃線後の軌道線車両
  木骨木造車1号形は何号車が残存していたのか未調査だが全車解体されたのは間違いない。部品は何処に売られたのか鉄屑か?
  モハ20,30形は昭和12年12月全車ポールをパンタに換装、ステップを除去して鉄道線に移籍した。
  ※22号は一足お先に昭和12年1月に鉄道線へ移籍、21の移籍時期は不明。
 
■ モハ20形 その後 (この項、鉄道図書刊行会私鉄車両巡り第Ⅲ輯、坂井英夫様「福井鉄道(中)」より引用させて頂きました。)
 昭和15年2月に福武電気鉄道(現福井鉄道)に譲渡され、デハ31形31(モハ21)、32(モハ22)として前部方向幕を埋め、自動連結器を取り付けた。ボギーセンター間を5,295mmから2m延長7,295mmとした。
 福武鉄道南越線で稼働、昭和22年形式をモハ30形(31、32)に改番、昭和29年台車を日車ボールドウインAタイプに交換した。時期は不明だが主電動機を同社モハ1形から転用したと思われるゼネラルエレクトリック社製GE269C40.03KW×2に交換されている。
モハ31は昭和40年3月に電装を解除されサハ31になった。※32号の部品供出用?

■ モハ30形 その後 (この項鉄道図書刊行会私鉄車両巡り第Ⅱ輯、白土貞夫様「茨城交通 湊・茨城線」を参照させて頂きました。)
 一旦国有化されて、鶴見線に在籍したが、省電が押し寄せて活躍の場が無く、昭和23年10月に廃車となった。同年、茨城交通に譲渡され、電化されていた茨城線のモハ1(31)、2(32)として大学前~赤塚間4.3kmで活躍した。
 前面の方向幕窓は何時埋められたの不明。再びポール化され、S33.11以降にZパンタに換装している。※Zパン認可はS32.4.2。
なお、 モハ32は宮城電気鉄道由来のブリル27-MBC台車と主電動機をウエスティングハウスWH59形に振替えた。(時期不詳)
 昭和46年2月11日同区間廃止により廃車。

■モハ30形が茨城交通モハ1、2となった姿を「むー様」が撮影しておられ、
  「む~さんの鉄道風景」の掲載ページへの直リンクをご快諾頂きましたので往事の姿をご覧下さい。→こちら 
  むー様に心から御礼申し上げます。
  モハ1号とモハ2号と並んだところを撮影されています。台車が異なるため、車高が違っているのが判る貴重な写真です
 ↑ 車庫への連絡線が想定される場所 
 ↑↓車庫位置推測 
S7(T6測図S3第2回修正測図、S4鉄道補入、S7要部修正測図)
※軌道線営業中。要部修正時に連絡線は未だ無かったのか・・・。

S22(T11,.S4.12,S4測図の縮図、S20部分修正測図(空中写真測図)
 軌道線が消去されていない。如何に戦後が混乱していたのか・・・
 戦争中に不要不急のレール剥がしが全国で実施されているので残っているわけは無いと思うが。
 但し↓鋼管前の線路は途切れてロータリーになっている。
 本来、昭和20年にはロータリーから川崎市電が描かれているはず・・・。調査員さんも・・・。
■ 現場の資料は戦災で焼失・・・。
 鉄道線の旅客営業開業当時の新製主力車だったモハ100形車体長15.5m、開業5年後にモハ110形に改番された。
モハ30系列(称号変更後モハ11系列)16.2mに伍する車体長。ちなみに 軌道線のモハ20,30形は12.8mで小型。
 ↑静岡鉄道北恵那鉄道 僚車は他に銚子、山形交通三山※にも行ったが、車体ば別形に更新された
空中写真昭和11年  鶴見臨港鉄道に合併吸収後の軌道線と鶴見臨港鉄道 
昭和34年 海岸電気軌道廃線後
 その2に続きます。掲載は2019.GW頃にはと思っております。 $(_ _)$
じぇじぇじぇ~!
フィルムの危機紹介
・大量スキャンのアドバイス
・店主的フィルムスキャナ比較
ビネガーシンドローム(フィルムが丸くなる)
スキャン営業内容他
ブローニーSCAN等
・フィルムデータ保管法
・取り込み解像度比較
スキャナー用フォルダの例
喰ったら体重倍返し
半皿~ッ!グルメ

ウケ狙いで、そろそろ古い?
随時更新中。
お立ち寄りを
地方鉄道中心の
写真・録音見出ページへ

・30分以上多数
旧客峠駅売、山スカなどお勧め
※店名略称:フィルムスキャンs、通称店名:鈴木写真変電所  
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