【京浜電鉄歴史】
品川駅の場所変遷
補訂最新2024.04.10 Ve5.06
  ↑計画通りうまくいっていれば、このような行き先板もあったのでは。
通勤ラッシュは16m車14連の民鉄最長編成が台車の集電靴なびかせて、
表銀座の四丁目を経由して浅草~三崎口間を颯爽と走行-------。(フェイク写真)
※車体は全鋼製に更新されているものとし、特別許可で非貫通乗入可能で・・(笑)
京浜急行電鉄の品川駅は昭和8年4月1日に使用開始以来、終端駅から地下乗り入れの通過構造化、通路や跨線橋の増設、ホームの延伸等その姿を少しづつ変えつつも、基本は変わらず現在も
京浜急行のゼロマイルステーションとしてその機能を保持しています。
しかし、2030年の桜咲く頃には、新設の駅に移転する計画です。
【品川駅が再度地表に降りる】
2021年度から東京都が主体となって道路整備(踏切除却)の一環として京急品川駅の地上化計画アナウンスを開始。
事業工程は2029年度迄記載があり、順調になら2030年春開業する?
■この工事関係の東京都発行パンフレット類リンク
 地元説明用パンフ 事業工程入りパンフ質問質問2
----どーでも良いけど-----その頃、店主はこの世にいないだろう-----
■品川駅の場所は2転3転の歴史があり、再度、地表に戻る数奇な状況をある程度紐解きたいと思います。 
  京浜間私鉄勃興前の品川駅付近の地形図
  ※地形図は測量修正から印刷発行まで大改訂は数年、修正は1年程度の単位を要する場合あり
  直ぐ反映出来ない場合も多いようです。
  おおよそ発行日の1年以上前の状況とお含み置きください
 明治24年発行の陸地測量部(現在の国土地理院)作成の「品川」で見る限り、鉄道の記載方法も定まっていないようで「東海道鉄道」、「至新宿鉄道」という記載があるのみ。-------------------------------------------------------------------------------------------------
2021年に築堤発見!と大騒ぎした海上築堤を行く東海道線が記載されている。
ちなみに、この築堤を築く土砂資材の一部は、丘状地だった八ツ山地区をV字状に開削(薄茶色着色部分)した土砂を運搬して使用された。※大森方面の丘状地も開削され、その土砂も使用。
想像するに鉄道敷設なので、仮レール敷設し、馬運とかの土運方法が使用されたのでは?
神奈川~横浜(桜木町)・横浜港間も築堤を造成して線路を通したが、青木橋付近の丘地を線路のために開削した土砂が八ツ山と同様に使用されたのでは?
江戸~明治時代は、台場や築堤、埋立地を造成するのが得意な指導者や請負組が、かなり存在していたようだ。
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海岸に「東」「海」「道」と大きく記載があるのは街道名。
地図の上から町名として、「歩行新宿」(かちしんしゅく)、「利田新地」(かがたしんち)、海岸なのに「猟師町」※当時の漁師は猟師とも。本当に鮫がいたのか?の「鮫州」と続く。
後の京浜電気鉄道延長線に出てくる地名「白金猿町」も上方に赤線ひいておきました。
品川駅は「停車場」として記載があるが、目黒は「目黒停車場」である。
地図の掲載方法の統一もまだまだ。※その後の地図も線路の表示が度々変転しているが
品川駅舎の場所が高輪南町からの下り坂の道正面に無く、後年、正面に移転したのだろう
明治24年品川官営鉄道
 ↑地図上に目黒川を挟んで「北品川宿」と「南品川宿」、
湘南新宿ラインで一躍有名になった信号所名の「蛇窪」の地名に上下が付いた村、
店主には、なじみの無い「谷山村」、「桐ヶ谷村」、「居木橋村」等の表示もある
しかし、目黒川と立会川の蛇行っぷりはなかなかである。
 八ツ山地域のこと
【八ツ山の地名由来】
 品川宿の北の入り口あった丘の名称で名の由来は
 (Y1) 八つの岬があった
 (Y2) 八人の諸侯の屋敷があった
 (Y3) 谷山(やつやま)村の一部だった
 等の諸説があり、定説は無い。
【八ツ山橋梁が出来た理由】
 官営鉄道敷設のため、八ツ山の丘地を開削し、2地区分割にしたため、そこに存在した東海道街道の往来確保のために橋梁が必要となり、木橋※を架橋した。
※原典には西洋型木橋とあるが、店主西洋型形式不知のため木橋とした
参考:品川区広報「品川歴史散歩明治維新後の品川 第14回」
【橋梁設置以降の八ツ山地区】
地元から見れば、往来や居住に使用していた丘地が分断されたのだから、今なら「北八ツ山」、「南八ツ山」等と双方の丘地に通称なりを付けるのだろうが、どうも当時は渾然一体の「八ツ山」と記述されている部分が特に東京市電側に見受けられる。  
大師電気鉄道の戦略と京浜電気鉄道の誕生 
京浜電気鉄道の前身である大師電気鉄道は六郷橋と川崎大師の間を往復している状況から会社を拡大躍進させる手法として2方面への延伸を選択した。
・ 東京府の中心に向かって路線を延ばす。
・ 横浜中心部に路線を延ばす。
予定路線の2路線は、集落もある官設路線脇に沿う小判鮫作戦。

■横浜駅付近の線路の開通時の状況については
【京浜電気鉄道の線路・駅の変遷 (横浜~新町編)】【横浜駅三代にわたる移転の図】
でおおまかに掲載しております。もう少し詳細はそのうち(笑)に記載することとして・・・。
今回は東京方面に路線を延ばす作戦を時系列に見ていきます。

【大混乱!東京市内の電気鉄道敷設特許の出願ラッシュ】
 [伏線]
明治23年東京上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会で「東京電灯の施設として博覧会会場内の桜ヶ丘~両大師門の間約436mにアメリカから購入した電車2両を走行させた。
この「百聞は一見に如かず」策は養蚕・絹糸、開港貿易で大当たりを取った国内の事業家・投資家の儲け魂を揺さぶりまくった。
[申請はわれもわれも]
鉄道敷設は「特許」でその区間を独占運営出来るため、取得した者勝ちである。
■明治26年 電気鉄道実施既成同盟会設立 この団体がどのような役割を果たしたのか
 さぁ、電気による鉄道事業(投資先)を興して設けようぜ!と役所にアピールする団体?
■明治26年10月 雨宮敬二郎他 築地~江東方面の路線出願
■明治26年11月 東京馬車鉄道 既存の路線の動力変更届
等を皮切りに■明治27年3月藤岡、■同28年4月草刈、■同6月藤山他の多数から東京市内の路線敷設出願が出された。
その運転方法は未実証の方法や方式ものばかりで、東京市は不勉強/不慣れ?もあって、許可をしなかった。
申請は明治26年から数年間に集中的に行われ、いかに電気鉄道が投資の対象になったかを物語る

[百家争鳴中の東京の投資家]に対し、 
 京都では琵琶湖疏水を利用した水力発電を利用した電力使用先に電車運行策が考案され、その関係者として髙木文平等が地元経由で明治26年4月内務省に敷設申請。
明治27年2月1日京都電気鉄道を設立、同7月特許が下附され、粛々と工事が進行。
明治28年 2月1日 日本初の電車が開業
※書類上、たった1年間で建設してしまうが、現在の敷設は申請から10年以上かかる状況はいかがなものかと店主。少子高齢化でもう敷設は無いかなぁ~
京都において京都駅~伏見間に日本初の電車運転が開始され、京都が一番手となった。
続いて日本で2番目の開業は明治31年5月 名古屋電気鉄道の笹島~県庁間となった。
3番目に東京市内ではないものの、明治32年1月21日大師電気鉄道が開業した
この大師電気鉄道が敷設した路線特許の出願争いもあったが、京浜間の敷設特許についても同様の展開があった。

【京浜電気鉄道の設立
(1) 明治26年 雨宮敬二郎他 軌道条例による「京浜間電気鉄道」特許を出願
(2)   同  年    中野武営他  鉄道条例による「京浜間電気鉄道」特許を出願
※同名のため以降、軌道条例鉄道条例京浜間電気鉄道と両社の呼称の区別が行われた。
(3) 明治28年4月 若尾幾造他 の(1)(2)と同様の出願、加えて7月に横浜~大師河原間も追願
同区間は競願過多となって結果、
明治29年4月  (1)、(2)の出願は却下された。(3) はどうなったのだろうか?調査不十分だが、
以下の(7)の大師電気鉄道と合併仮契約段階で立会人として若尾幾造の名が出ており、京浜間の路線特許調整は以下(8)に収斂したと考えられる。
まぁ、投資が儲かればそれで良いのだから。
(4) 明治30年12月却下された(1)に対し川崎~横浜間を除いて特許の内示
(5) 明治31年2月 (1)は内示により品川町字南品川から川崎町六郷橋に至る間の敷設を再度願出
(6) 大師電気鉄道は明治31年末に(1)の軌道条例による京浜間電気鉄道が敷設特許を得そうだとの情報に接し、もし特許を取得されるとこの区間での巻き返しは出来ないため、同社と合併を急ぎ名を捨てて、自社の権益確保に舵を切った。(2)及び(3)も同じ考えで下記(7)に至ったものと考えられる。
(7) 明治32年4月5日(1)、(2)、(3)と大師電気鉄道の合併仮契約が調印された
 ※契約書の名前に(1)~(3)までの代表者の名前が入っているため。
    (1)~(3)とも会社として設立登記はされてない状態と考えられる
(8) 明治32年4月25日 社名を京浜電気鉄道株式会社に変更(設立)
(9) 明治32年11月28日 川崎~品川橋(目黒河岸)間の特許下附
(10) 明治33年  7月19日 六郷架橋組合より六郷橋橋梁買受 →六郷橋ページ
(11) 明治34年2月1日 六郷橋~官設大森駅間7.2km開通 (国道上敷設)
(12) 明治34年11月18日 羽田支線 蒲田~羽田(稲荷橋)特許下附→近々掲載予定です。
(13) 明治35年  6月28日 羽田支線 蒲田~羽田(稲荷橋)間運転開始
京浜電鉄の野望は「都心乗り入れ」引き続き敷設準備を進め、
(14) 明治35年10月29日 品川橋(目黒河岸)~八ツ山間特許下附 により、(9)と併せて品川(八ツ山)間の敷設特許が揃った 
(15) 明治37年3月1日 既存全線の軌間を1372mmに変更
(16) 明治37年5月8日 六郷橋~品川(Ⅰ)間 全通
  
八幡(大森海岸)~品川(Ⅰ)が専用軌道で開通、学校裏~八幡(大森海岸)も専用軌道化
東京市電八ツ山 京浜電鉄品川Ⅰ明治43年
 ↑木橋時代の八ツ山橋が描かれている。
かなり斜めの架橋図になっているが、実態は築堤から線路ギリギリ迄橋台を出して架橋?
京浜電気鉄道の品川(Ⅰ)が道路上にある。この部分が拡幅され、新国道に繋がる
 念願の「品川(八ツ山)」に到達 
■官営品川駅方面は東京市電(当時の東京電車鉄道)が敷設されており、京浜電気鉄道のその先を阻んでいた。
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【東京市電】について
当頁は東京市電以前の呼称は使用しません。下記の日付を参考に読み替えをお願いいたします
(T1) 明治30年8月[品川馬車鉄道]品川(八ツ山下)~新橋間 開業
(T2) 明治32年--  [東京馬車鉄道]に吸収合併
(T3) 明治33年10月[東京馬車鉄道]→社名変更[東京電車鉄道]
(T4) 明治39年9月11日 東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道の3社が合併し
   [東京鉄道]設立
(T5) 明治44年8月1日 東京市電気局に買収され、東京市電に
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 重大な事実は八ツ山橋梁は長さ16.2m、幅7.2mの木橋でその上に東京市電も京浜電気鉄道も線路を敷設出来なかったようだ。
(15) 明治37年3月1日京浜電気鉄道は 1435mm軌間を東京市電の軌間1372mmに改軌
 東京市電と乗り入れする腹づもりで契約を結んだのか?未調査だが、市電の軌間1372mm改軌まで行ったのに、前の事業者と結んだ契約は知らないとばかりに東京市電側は「あ~だこうだ」で乗り入れさせない既得権益死守作戦。
京浜電気鉄道が独自に「乗り入れ出来る」と見込んで1372mmに改軌したのだが。
となれば、甘いというか・・。
サァ、どう切り抜けていくのか? この部分は下記の高輪乗り入れ問題で
東京市電八ツ山 京浜電鉄品川Ⅰ明治43年
  ↑上の拡大地図の元 (切り出しをしてますので元版ではありません)
二日五日市なる名称がある。
■地図に追特許区間を表しました。
追特許区間は当初東京市電(当時の東京電車鉄道)が保有していたらしいので、川崎~品川橋(目黒河岸)間の敷設申請としたらしい→調査中(見通し不明)
上記経過表の
(9) 明治32年11月28日 川崎~品川橋(目黒河岸)間の特許下附から
(14) 明治35年10月29日 品川橋(目黒河岸)~八ツ山間特許下附の区間※
※現、北馬場から北品川間の特許  
※(目黒河岸)とあるのは
橋の川崎側から架橋する意味を含んでいると考察
選んだ路線は海側に人家が建て込み人流が多く、収益の即効性があり、東海道線より左側(山側)はお屋敷と農耕地が占めていて、そこに敷設しても収益は少ない。のが理由と思われる 
品川 京浜電気鉄道 東京市電大正5年
  ↑T5.11.30発行の地図では八ツ山橋の架け替え後の地図
東京市電[品川電停 ] (市電品川Ⅰ)、京浜電気鉄道[品川(Ⅰ)]駅マークが記載された
本頁関連の品川駅は京浜電鉄品川駅(Ⅰ~Ⅲ)、東京市電品川(Ⅰ~Ⅲ)で所在を区別しています
   ↑上の拡大地図の元 (切り出ししてますので元版ではありません)
■M43.03.の地図では北品川間から川崎方向が専用軌道に表示になったよう。
 さらに川崎方の線路は各所で専用軌道の工事が急がれている時代 
 特に大森~川崎間は専用軌道の大規模工事をしています→作成中
■ 東海道線(地図:伊達邸文字のあたり)から大崎方向へ勾配をつけて
  東海道線を乗り越す線路も出来ている。
<お寺>
この地図に卍マークのある場所を黄色でマーク。
沢庵和尚が関係する江戸幕府の保護を受けていた東海寺に小さな門前寺?密集地帯がある。
また、日暮里あたりから神奈川までの海側には多数のお寺が立地していて、現在もその数は多い
左側中下に「沢庵和尚」墓とあったので同じ色でマーキング
鉄道工事も当寺の裏手から横浜方面が試運転されて乗降に使用され、寺内領地から枕木用?材木や土砂も供出された
<地図に番地が入った>
大正版の明細地図?版かも。しかし・・・。時代と共に番地入りは消えていきます
品川(高輪)乗り入れが出来ない京浜電気鉄道!
乗り継ぎの不便な点をマスコミが世論に訴求

参照元:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
(報知新聞1912(T1).8.8-1912.8.12)

※このような文献を保存公開してくださる労力に心から感謝申し上げます
今風に言うと「依頼記事」なのか「記者魂の発露記事」か不明だが、原文は現代ではあり得ない記載の文章
<以下、全て店主の独断で長文を超要約、無教養現代仮名変換、見出設定、注釈等しています>

 気になる方は是非、原資料(神戸大学経済経営研究所のリンク)の読破を願います-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
[イントロ]
八ツ山の乗換客に至っては、今日に至っても乗客は雨中泥土を踏んで徒歩で乗換ざるを得ず不便極まる
京浜電気鉄道は社会交通利便の為め、自社の営業存立上の必要問題として、品川(八ツ山)終点で東京市内電車との連絡をしたいと急いでいる
吾人(記者)はこの問題に対す各方面の所見を質し、市民と共に一日も早く完成を見るに努めんとす

[関係者談の要旨]
■井上電気局理事
京浜電車と市電車と連絡の件は政府の特許命令書中の一条件になっているので、拒絶はしないが、私は京浜電気の社長青木氏と友人の間柄※なので隔たり無く意見交換も行うが、八ツ山方面の路線を断念することは100mも官営品川駅側に後退して住民の不便になるし、敷設特許の放棄にもなる。議会に諮らなければならない。さらに品川町方面で両電車を連絡すべき場所を作るに京浜電車停留場附近の人家を買潰さんか(買収)莫大の資金を要すべく、そこまで急ぐ案件では無い。※今の時代、こんなこと言っただけで大騒ぎ。
■青木京浜社長
鉄道院に交渉して線路の設計及連絡方法(官営鉄道線増による橋梁掛け替え)を定め、東京市にも説明するが、東京市電の路線断念問題が持ち上がっている。この場合は京浜線路の一部(敷設延長)を共用して品川方面(荏原方面?)に延長するのが良いのでは。
監督官庁は八ツ山の如き地域に二線併行敷設を許さないのは明らか。
局線(市電)の一部併用は避けることが出来ないので、電気局は熟慮の上、早急に私の懇請に同意して欲しい
■古川中管局長※(内閣鉄道院中部鉄道管理局)
品川八ツ山間の電車連絡の件は鉄道院の双手を挙げて賛成する。
京浜間官線の現在数は4線だが、これを8線に増加させる予定なので、品川鉄橋下を拡張する必要がある。
現在の鉄橋(木橋)を架け替るのでは無く、本院は目下、鉄橋用材料を海外に注文中。
来年一杯(大正2年)には架橋工事の竣工を予定している。
この新鉄橋の工費は約十万円を要するが、京浜電気鉄道会社より此の橋梁の一部に軌道敷設の出願があるなら、工費の3分1負担の条件で承諾する。
品川~八ツ山間の道路は御承知の如く狭隘なので、幾個の橋梁を架することは困難であり、しいて単独で架橋せんと希望すれば、その経費は巨額を要する。新鉄橋を利用すればその経費は3万3千余円にて足りる。
京浜電気鉄道が東京市電気局と熟談を遂げて、品川~八ツ山間の連絡施設の一日も迅速に完成することを熱望
 
 ↑線路増設の起案の一部
  ■松木市電気局長
品川~八ツ山間両電車連絡の件は両者の考案する連絡方法が入り口でこじれているが、連絡の必要は両者共に認めるているので、両者で多少の犠牲を払って妥協すれば実行は必ずしも難かしくない。
京浜電気が提案している方法は京浜の軌道が橋を超えて(※官設品川駅方向)延長し、八ツ山までの市電の軌道に接続し、両者の共用線と言うが、私は京浜が別に専用線路を作り、連絡する方が素早い解決方法と思う。
■阪谷市長
市電車と京浜電車とが連絡してしない不便は自分も知った。
事業を急がなくてはいけないと言いつつ、なんだかんだで実行出来ていない。
交通の利便を考えるのなら、なんでこのような事態になっているのか、電気局長になんだかんだ言わずに京浜間交通上の急務として職員と共に解決しろと命じた。
※下記の文書は舌の根が乾かない内か、乾いていたのか? 新聞記事は1912(T1).8.8-1912.8.12付けの連載

(この項完)
 
 ↑市長は上記の談話のそばから、こんな回答が。
文書以外にも連発されたんではと勘ぐる店主
八ツ山直通 大正12年
↑ (20) 大正11年1月21日に東京市電が品川(市電品川Ⅱ)に乗り入れてきた。
     京浜電気鉄道の品川(Ⅰ)は、旧道路脇にある。停留所に乗客は徒歩移動。
八ツ山橋梁を電車が渡った時期とその後
※市電の八ツ山と京浜電気鉄道の八ツ山の名称は「谷の向こうとこっち」の混同関係にご注意
■古川中管局長談の「品川鉄橋」(鉄道側の呼称)は木造
明治5年の官設鉄道開通に伴う八ツ山地区の線路路盤開削のため、街道「東海道」が途切れるてしまうので橋梁が必要となって1871年(M4)05.15着工、
1872年(M5)01.14完成した。
通称「八ツ山橋」
(長さ16.2m、幅7.2m)
※鉄道工事なので、現横浜市神奈川区の青木橋もほぼ同時期に完成したと思われる。
日本初の立体交差(木製)陸橋が2カ所ほぼ同時に完成したことになる。
■鋼製の八ツ山橋
1914(大正3年)に上記対談中の「海外に材料注文中」という橋は
両側と中央のアーチ3本で2橋路を支承する、車両で言えば連接車のような構造の橋梁に掛け替えられた
<京浜電気鉄道の橋梁建設1/3の負担は本当なのか>
店主は本当に1/3を負担したのか?の後日談が知りたい・・・と思って資料捜索・・・。

上記の対談中、内閣鉄道院中部鉄道管理局長が
京浜電気鉄道が建設費用を3分1負担の条件で(敷設を)承諾、京浜電気鉄道が東京市電気局と熟談を遂げて。とある
が、この話に真顔で出します!ハイハイと飛びついて資金負担したのだろうか?
京浜電気鉄道と東京市電の敷設方法自体がまとまっていないのを管理局長は知っているので「茶化している」のであろう。
本来、開削工事などやらなければ、橋梁も不要で双方、どう敷設しようが自由度はあったのに。
まぁ、開削時点で京浜電気鉄道も東京市電も線路が来ていなかったので無駄な話ではあるが、一番笑える。
谷を作った側の「上から目線の話」ではある

■大正3年に高輪停留場までの施工認可申請を行った際
【京浜電鉄は橋梁上の軌条敷設に際して費用を計上】
 (1) 橋梁は鉄道院で建設する。 下記文章の赤紫枠
 (2) 橋梁上の軌道は京浜電鉄施工で予算額として35,600円が計上された。
 以上が鉄道院に申請する書類上で判ったことですが、「裏」は判りません
 ここに前出の京浜電鉄青木社長の談話に
「鉄道院に交渉して線路の設計及連絡方法を定め」という文言があるので、下交渉は進んでいて「熟談」を遂げてに結びとなるのかも知れない。

■結果、大正6年12月25日付で東京市電と将来の高輪乗り入れも含んだ契約が交わされたが
その中の第3条に「(要約)京浜電気鉄道が既に持っている軌条架線及び八ツ山鉄橋は無償を以て市に使用させ、維持は市の負担とする」と既存線路
の表現に変わっています。
■軌道工事は下記の白金猿町までの資金計画表に「橋梁は鉄道院にて建設」とありますが、別途「橋梁費」があり、「軌道費」とどのような関係なのか?橋梁費は鉄道院に「負担金」として納めらるのか?
※計画書によれば橋梁は2カ所で、もう1カ所は高輪~白金猿町間に毛利邸玄関道路を跨ぐ小規模なものが計画されている。
鉄道院は上記の談話で10万円のうち1/3負担でどうか?と記載がある。3万5千円は近い金額・・・。
■鉄道院の八ツ山橋梁敷設¥は京浜電鉄の負担があったのか?黒歴史で抹殺??、一般的な史上に上らないのか?と言う感じです。
【京浜電鉄八ツ山橋梁上の軌条敷設費用】 
 ↑大正3年提出の青山延長線の予算書から
↓八ツ山橋梁取付急カーブ護輪軌条取付  しかし↓市場に在庫が・・・。 
  ===八ツ山橋梁を最初に渡ったのは東京市電===
■大正6年12月品川(八ツ山)で東京市電と連絡運輸の協定締結。
 市電が京浜電気鉄道品川まで乗り入れ、将来的には京浜電気鉄道が市電に乗り入れる方向で妥協
 ※毛利公爵邸の話は記載されているが、まだ実施計画は先のよう。 
■大正11年1月21日に東京市電がこの橋梁利用して品川Ⅱ(八ツ山)に路線を延伸した。
 この時点で京浜電鉄品川Ⅰは駅前の道路拡張計画で駅舎の移転問題もあり、線路は繋がっていない。
 双方が道路上で向かい合った両品川駅(市電品川Ⅱ、京浜品川Ⅰ)間は徒歩による連絡であった。
下図:大正12年4月30日発行地図参照】
■大正12年3月 東京市電の京浜電気鉄道品川(八ツ山)乗入運転許可
■大正12年9月1日関東大震災発生
■大正13年3月29日 品川駅統合 (市電品川Ⅲ、京浜品川Ⅱ)へ
■大正13年4月5日 東京市電京浜電気鉄道品川駅Ⅱに乗り入れ開始
 駅の配線などは下図の建設図面参照ください

国道を拡幅・新設で道路脇に設置していた京浜電気鉄道の品川駅Ⅰは市電Ⅱと駅を統合するため200m横浜寄に後退、
市電が折り返し出来る線路とホームを持った品川駅を 道路外に建設し、市電は専用ホームに乗り入れた。
駅としては京浜電気鉄道は[品川Ⅱ]、市電は[品川(Ⅲ)]
引用参考:品川区役所WEB「品川歴史散歩」明治維新後の品川 第14回 
鉄橋写真は品川区しながわWEB写真館「八ツ山橋」検索で何点か掲載されてます
■供用区間の架線の構造
下記「品川駅(Ⅱ)の架線張架図と八ツ山橋梁の複線式架線について」に記載
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【東京市電の品川停留所の動き】
大正元年の報知新聞の記者との対談にも窺えるように、東京市電は自己権益(東京市民に利するという名目)を守る理由から、軌道を現在の北品川方向に小刻みに延長した。
(T1) 明治36年8月22日に[八ツ山]まで開業。
(T2) 大正3年月日不明  (1)の100m延長、[八ツ山折返](非客扱?)を設置
(T3) 大正5年月日不明[ 品川(Ⅰ)]に改名
(T4) 大正11年1月21日 (2)から100m渡橋して[品川(Ⅱ代目)]を設置、[品川(初代)]は同日廃止
(T5) 大正13年3月29日(3)国道拡幅新設のために100m延長した道路脇に品川駅Ⅱを建設
   駅手前で東京市電の線路を分岐して京浜電気鉄道上りホームに隣接して市電の乗降場を設置した。
(T6) 大正13年4月5日 京浜電気鉄道の品川駅Ⅱに新設された[市電品川Ⅲ]の線路及び乗降場に市電が乗入を行う 
 品川駅(Ⅱ)の架線張架図八ツ山橋梁の複線式架線について
 ↑構内架線張架図
<2022.05.22補訂>
■八ツ山橋梁上の架線設計を単線架空式から複線架空式に変更
京浜電鉄品川(Ⅰ)から青山にいたる延長線をM41.06.19に特許取得の際、架線の方式を単線架空式で得ていたが、品川駅(Ⅰ)(北品川宿2番地)から高輪南町33番地の間の設計を複線架空式にする届けを出して、大正3年10月24日付で特許条文の変更を得た。
理由として、鉄道院施工の橋梁が全鋼製であるため、単線架空式だと「感電の恐れがあるため、危険を避ける」というもの。
鉄道院ともあろうところが、変更届をハイそうですか。と認可することはあり得ないはず。
京浜電鉄は既にM44.04.01にトラス構造を含む全鋼製六郷川橋梁で単線架空式で使用を開始している。その他の鉄道でも当たり前田のクラッカー(古~いだじゃれだのう)
鉄道院の鋼製橋梁がビリビリしびれる恐れがあるとは噴飯もの。
約337mの区間だけ複線架空式にしたとすると、京浜電鉄の運行対応車両はダブルポール仕様に改造しなくてはいけないし、全線の単線架線の偏奇問題も出る。
店主想像だが、これは京浜電鉄、東京市電、鉄道院の認可部署の暗黙の了解で認可になったと。
訳は東京市電はこの時点でダブルポール運行車両を想定していたのではないか?
高輪南町33番地以北は東京市電が運行していて、当時、複線架空式だった。
東京市電の乗入れ問題が混沌とした部分があったため、正面切って東京市電を原因者とは書けなかったのであろう。
----------------------202.05.22補記以上---------------
東京市電は(ー)架線を計画していたものの、Wポール車両の運転が無くなり、複線架空線で施工したのを単線に戻す手間は、コストがかかるので架線をそれぞれに分けて使用したのでは?
大正13年9月に品川変電所の新設申請し、完成後、複式架線の京浜電鉄用の外側の架線には勢いのある電力が給電されたのであろう。
やり方によっては双方の架線を選び放題で、乗務員によっては「コソ泥電力」可能?(笑)
↑ 拡大図
この後、実際に(+)(-)複線式で張架はされていない。
東京市電はシングルポール車のみになったのか?
(+)、(ー)の架線間に豆粒のような絶縁碍子が挟まれている状況で、実際の運転時には(+)が双方の架線に加圧されていた。
図には架線を支持するスパン線と架線柱が画かれているしかし京浜電鉄と交差する(ー)部分は絶縁をかませてあるが、京浜電鉄側の(+)には絶縁体が無い。
こうなるともろに東京市電の(ー)ポールに600V(+)が加圧されることになるが、電気的にはどうなんだろうか??である。  ※その後、図面は修正されたようです。資料がとっちらかっていて、探し中
この図面の架線を指定どうり使用すると、京浜電鉄は外側で集電して高輪駅間を走行したことになる。
 
 ↑ ポールの分岐器フロッグの図面
図面出典:福島交通 工事方法変更より
※メーカーにより差異はあるが大体同じ
 ↑東京市電引き上げ線延長前の図面
京浜電鉄ホームは高床ホーム化、周辺は防護柵(橙太線)と構内踏切設置、
黄色線は撤去線路、極一部は貨物ホーム新設の際の線路に転用
 ↑延長のための配線変更届大正13年4月12日(単純届扱) ↑2両停留させるため、延長 45と赤字で記入している
京浜電鉄 品川Ⅰ→Ⅱへの移転に関する申請等書類
対役所の書類は膨大な量なので超極少抜粋
書類の流れ基本:京浜→東京市→国→東京市→京浜
※あえて現代仮名訳はいたしません。当時の対役所のやりとりをお楽しみください
役所の手書き文字文書は別途タイプ打ち等で清書、押印されて発送されます。
 道路を拡張して線路を道路の中央に寄せ、品川駅(京浜電鉄:品川Ⅱ、東京市:品川Ⅲ)を新設
点線の撤去線は市電ホーム線と連絡していない。貨物ホームはさらに変更される
 ↑↓高輪乗入迄の間、日付は不明だがY線の仮線敷設の変更願が出される
 
 
 ↑折り返しY線撤去。亘り線新設。旅客ホームは非対称に。貨物ホームが再度移転?
 
 ↑ ↓蒲田~当駅間の連結運転開始のために線路を整理
ホームも延長した。線路の色は軌条重量を分けたもの
 八ツ山橋は連接橋梁?+ウリふたつの増設橋で活躍八ツ山橋梁増設と線路移設
 【高輪駅乗り入れは内容を追加補訂してページを分けました→こちら
 [参考文献] 大変お世話になりました。御礼申し上げます。
京浜電気鉄道沿革誌、日野原保様 鉄道関係文集、京浜急行80年史
日本鉄道旅行地図帳 今尾恵介様監修 新潮社 、私鉄史ハンドブック 和久田康夫様著 電気車研究会
■神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
 報知新聞1912.8.8-1912.8.12 (大正1)電気鉄道(01-016)
 京浜電車連絡問題 (一〜四) 
■品川区役所品川歴史散歩他の広報資料
■東京市電、東京高速鉄道、東京地下鉄道、五島慶太各Wiki
 京 浜 電 鉄 歴 史 探 索(京浜急行電鉄も)
※全項目、資料等発見次第、随時補訂しています。各ページのVer.Up年月日でご判断を
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 ホーム嵩上,車両改造  軌道線全車パンタ化 連結運転開始,湘南ト1形      
 2軸台車の無蓋電動貨車と無蓋付随貨車  T13.08日立台車パンフ 
 運  転
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 路  線
   湘南電鉄 逗子線  逗子線の3線区間    
海上走る汐留線(京急)  東京市内線と泉岳寺乗り入れ(京急) 東京市内線,汐留線申請は関東大震災直後だった  京浜川崎と国鉄川崎駅間の貨物連絡線敷設  海岸電気軌道 
品川駅(Ⅰ~Ⅲ)の変遷
複式架線・構内線路追加  
品川(Ⅲ)開業
品川~横浜主要駅の改軌
八ツ山橋梁増設
と線路移設
のナゾ
高輪駅乗入とその後  青山延長線
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(Ⅰ)南北馬場統合失敗
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