京急3線区間前段
海岸電気軌道
京急昭和(その1)
230形
南北馬場高架工事
逗子線3線区間 鮫洲地上駅時代  雪の日の思い出      
400/500形(鳥見塚)  600形(鳥見塚) 700形(鳥見塚他) 1000形(鳥見塚他)        
               六郷橋梁と六郷土手駅 (2019.04.29.Ver2.2)承-03
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■本ページを作成するにあたり国土地理院の空中写真、地図の承認を得たほか、文献として引用を含んで京急80年史、日野原保様の社内関係文集、京浜電気鉄道沿革誌(昭和24年5月30日発行)の本文の引用、参考及び掲載写真の転載させて頂きました。
 ほか、店主調査によるもの、個別に示す資料等を引用・参照させて頂きました。
本文中の(株)は省略
京急六郷橋梁600形608
↑↓六郷土手側から上路ガーターに付番があって1~18迄は撮影確認しているが
本流部分のトラスまで24連あったなんて、撮影当時そんなことは頭に無かった※下記参照

なんと架線柱が河川敷から立ち上がっている京急仕様??豪雨の時は架線柱にも
川の水とゴミと押し寄せるが、耐え抜いたのか?そんなことにはならなかったのか?
この架線柱番号は「六川5」

↓更に下手くそな、多分パシフィック号の写真しくじり
京急六郷橋梁No18ガーター
京浜急行専務取締役時代に執筆された日野原保様の文献によると
明治44年4月1日に完成した六郷橋梁は支間12.8mの上路 鋼板桁 24連と支間31.2m×6(純径間30.48m=100フィート)とトラス橋で構成され全長515.897m、橋梁の製作会社は川崎造船所であった。橋脚は煉瓦積み構造。
その後、関東大震災で橋脚に亀裂、沈下、傾斜が入って桁補修を行ったほか、車両重量の増加等で何回か補修を行った。
京急六郷橋梁付近400形417
京急六郷橋梁400形420-8連
同上の文献から六郷橋とその関連の歴史を順に追うと
(1)【第1代六郷橋梁】
   明治34年2月1日に六郷橋(初代川崎駅)~(官設)大森駅に隣接する大森停車場前間を開業。
   六郷川(多摩川)に
単線の仮木橋を架けて河原に線路を敷設。河原から旧東海道上の国道に併用軌道を敷設して蒲田方面に向かった。
   架橋場所は六郷川の人道橋に隣接した上流側で、下記のア~ウの理由などで55間(100m)の木製仮橋とした。  
 ア) 川崎、六郷地区の有志の共同出資で架設された橋梁があったので、原設計した木橋建設よりも、手っ取り早いという理由だろうが、 明治32年7月19日
共同出資橋を買収して鉄道併用橋転用をと企てたが、なんと電車運転に耐えられないことが判明した。
  
 イ) 別に鉄橋を架設するべく認可申請したが、研究の結果、困難なことが判明
 ウ) 有志架設の橋に平行して橋の杭位置も同一の位置※にした木造橋として六郷橋~大森

   明治34年2月1日第1代六郷橋梁
となった。
    ※脚が多くなって川の流れを妨害するの観点や地盤、認可の関係で同一位置にしたと思われる。
   ※増水時は河原が水没して、橋脚の損傷等が発生してその間は運休せざるを得なかった。
   ※大森開通時点で六郷橋は~大師の区間は正式に大師線となったのでは?
(2) 明治35年9月1日大師線の起点の六郷橋(初代川崎)駅から2代目川崎間の1.9km※を開通させた。
  ※官設川崎停車場隣接では無く、また線路の敷設場所は変遷しています。

(3)【六郷橋梁改軌】
  明治37年3月1日軌間を東京市電と直通乗入をするべく、1372mmに改軌した
(4) 明治37年5月8日 品川(現:北品川)~八幡(現:大森海岸)間開通。
  大森停車場前~八幡間は支線化、昭和12年3月8日路線廃止
  高輪(現:品川)~北品川は大正14年3月11日開業、併用軌道もあったが、ほぼ現在の路線となった。
(5) 明治38年12月24日 川崎~神奈川間10.0km開通 
 ↑初代の木橋と思われる単線の六郷橋 
人道橋の上流に設置(建設)とあるので川崎側からの撮影?
初代川崎駅(後の六郷橋)付近と思われ、手前にレールが積んであり、電線ドラム?や車輪もある

(京浜電気鉄道沿革史 「原版高松氏所蔵」クレジット記載写真)より
(6)【第2代六郷橋梁】
 異常増水による被害
 明治35年、8、9月に数回の出水があって六郷~川崎(初代)の運転を中止したり、暴風雨のために六郷橋の塵芥杭全部の流出。  
 明治39年10月1日 六郷橋梁の位置を現在の六郷橋梁に平行する位置に変更し、取り急ぎ※複線で仮木橋化した。
  
  ※品川~神奈川間全通による川崎駅構内配線変更、六郷橋~学校裏(平和島)の専用軌道化を考慮して、仮木造橋で輸送改善を行った。この時期に大師線の川崎、大師両駅のループ線廃止した。とあり、すでに「枝・支線」となっていたようである。
  明治40年11月複線運転開始
  明治43年9月の
大洪水で仮橋の一部が破損し、56日間渡船連絡を行った。

(7)
【第3代六郷橋梁】
  鉄橋の架設位置は六郷~大森間の軌道を国道上の併用軌道から専用軌道に変更するため、明治38年9月鉄橋架設地点及付近線路変更の許可を取得、明治39年5月、鉄橋工事施工許可を受けた。
 明治42年5月に工事を開始した六郷橋梁は3月31日に竣工、明治44年4月1日に支間12.8mの上路鋼板桁24連と支間31.2m×6(純径間30.48m=100フィート)のトラス橋で構成した全長515.897mの橋梁で運行を開始した。
   開通時期について「恰も花季の乗客輸送に遺憾なからしむるを得た」と桜の花見客輸送に対応出来たことを喜んでいる。
  工事着工までに設計変更が度々行われ、橋台橋脚及び付属土木工事は鈴木由三郎氏に請負依頼、鉄桁は川崎造船所に注文

(8)【六郷橋梁再改軌】
  昭和8年4月に本線を1435mmに再改軌した。
  東京地下鉄道と直通計画が「本当の主理由」※だったが、現実は五島慶太による計画強奪で挫折。
  改軌理由を「湘南電鉄と相互乗入理由が主」としただけの著述も多い。
  ※230形(湘南デ1形、遅れて京浜電鉄デ71形)は東京地下鉄道との直通運転を考えて東京地下鉄道1000形と車両規格を揃えていた。
↑第3代六郷橋梁
(京浜電気鉄道沿革史 「原版高松氏所蔵」クレジット記載写真)より
 京浜電気鉄道初代六郷橋の頃の道路橋
 ↑↓国土交通省川崎国道事務所平成15年10月17日発行「旧六郷橋親柱物語」パンフレットより
出典元サイト:http://www.ktr.mlit.go.jp/kawakoku/pdf/oyabashira.pdf 
↓水害の様子や天皇渡河の際に船並べて固定し、道とした等が判る ↓↓その下設計図
 ↑明治天皇渡河の為の「御船橋」の設計図 
↓上流が右側なのだろうが、左側の記号はアンカー??とすると??
 
六郷川(上流は多摩川-正式河川名)はその昔から暴れ川で洪水の度に橋を流し、周辺を水浸しにした。
住民にとって橋は重要な交通手段で、鉄材料や土木技術が発達しない時代は、川底に木の杭を打ち込んで橋脚とした。

店主的にはどのように川の中に太い丸太を打ち込むのか、非常に興味があって、機会があったら調べたい。
さらに、技術用語もその昔の用語が現在とは異なっており、検索出来る語句はまだしも、特殊なものは想像するしか無い。
例えば「塵芥杭」は出水時に流木やゴミよけの前衛として打ち込まれていると思うのだが・・・。その業界の古老も少なくなっているようだし。

「橋が流される」=周辺の田畑、住居は水浸しも考えながら、六郷川橋梁に限定して架橋について調べました。

 大正3年には度重なる洪水被害を無くすように、現在の南武線武蔵小杉から六郷鉄橋までの住人約500人がアミガサをかぶって神奈川県庁にデモを架けた事件も発生した

京浜電気鉄道は明治39年12月に修理の上、政府に献納したが、明治43年、44年の度重なる氾濫で崩壊流出した。
明治44年、東京都・神奈川県により小型の仮橋が設置されたが大正2年流失、再度架橋された。
これを繰り返す中、関東大震災で被災した中、大正14年8月鋼製の下路アーチ形のトラス橋が完成して、以降交通は確保された。
 ↑↓国道の六郷橋も架け替えが終了。撤去される旧橋梁
 ↑3代目六郷鉄橋が完成した。 道路橋は架け替え中
京急六郷橋梁400形420-8連
 ↑↓オールノーシルノーヘッダー421以降の2連×4本で組成の海水浴特急8両編成
京急六郷土手400形420-8連
 ↑品川へ 久里浜へ 433号
京急六郷土手400形420-8連
京急六郷橋梁400形420-4連+440or470
440or470と421以降の2連×2
京急六郷橋梁400形420、437+440or470の8連
↑440or470と437F?+414の8連
京急六郷土手600形625
京急六郷橋梁1000形8連
 ↑4連×2
京浜急行1000形六郷川橋梁
↓カビ、ピンボケ見本。本来ボツ写真だが1096らしきで
往復ともこの写りとカビでは泣くより悲しい久里工入庫か??堀之内止まり
京浜急行1000形六郷川橋梁
京急六郷橋梁1000形1098-8連
 ↑上に比べれなこれはナントカの1098
京急六郷橋梁1000形2+2-8連
京急六郷橋梁700系706
 ↑当時の制限速度は83km/hやけに半端な数値だが、限界まで速度を上げたかったと思われる。
京急六郷橋梁700系714
京急六郷橋梁700系722
京急六郷橋梁1000形1118
京急六郷橋梁1000形1178
 ↑1178-2連増結 「H」だからホロ貫通編成
京急六郷橋梁1000形1242
城ヶ島マリンパーク号京急六郷土手1000形1206
京急六郷橋梁1000形1212
京急六郷橋梁京成3200パシフィック号
 ↑特急 パシフィック号
六郷川橋梁六郷川築堤
京急六郷橋梁京成3126成田山号
特急 成田山号とあるが京急線内は「快特」
逗子号京急六郷橋梁京成3132
特急 逗子号
京急六郷橋梁都営5000形5036
京急六郷橋梁都営5000形5084
4代目六郷橋梁
(9)【第4代六郷橋梁】
  昭和47年3月31日上下線で新六郷鉄橋の使用開始。3代目橋梁から10.5m上流側となる。
  六郷土手第一踏切立体化と六郷土手駅の高架化(60m川崎寄に移動)工事を伴いながら、S46.6.27上り線、S47.3.31下り線
  が新橋梁使用に切り替えられた。第3代目の橋梁の寿命は満61年に1日足りなかったと記されている。
  第4代目となる新橋梁は支間65.82m×8スパン、幅8.5m耐候性鋼板使用のトラス橋で全長550.56m、重量約1,800t、
  製造所は東京寄りから第1,2連が横河橋梁、第3,4連を宮地鉄工所、第5,6連を東京鉄骨、第7連は川崎重工、第8連が日本鋼管。
  橋脚は鉄筋コンクリート製、橋脚本体は直径3m、張り出し幅11.5mのT形7基、両端に直径4m2基。
  基礎工事は昭和44年10月3日から45年8月15日、架設工事は45年10月1日から46年3月10日まで。
  架橋工法はカンチレバーエレクション工法、ステージング工法。橋梁部分の費用は約7億5千万円とある。
  
 ↑↓新橋梁はポイント部分の制限速度95km/h以外は105km/hで走行だが、写真は最高運転速度95/km↑と100km/hの列車
 ↑銀帯の上下に付いていたステンレス製の飾り帯は順次撤去された。
 ↑木枕木の締結装置。
橋梁とレール材伸縮対応で鋳鉄製のレール敷物と2種類の締結装置が交互にレールを締結。
 ↑3代目橋梁の最後の地図。発行は昭和46年9月30日(2万5千分の1)
上り線は切り替わり、下り線は昭和47年3月31日に切り替わるのだが上流側で工事をしている記載が無い。道路橋は架け替え済み
六郷土手側が高架では無いので3代目で間違いない。その後に発行した地図を買い足せば差異が判明するのだが、¥¥¥¥
 ↑六郷土手駅と4代目六郷橋梁
京急六郷新鉄橋
 ↑旧橋梁解体中遠景
 -------------六郷土手駅------------
京急六郷土手地平駅
↑↓六郷土手駅 一般道は警手が踏切遮断機(帯)を操作していた
京急六郷土手地平駅
京急六郷土手地平駅
 ↑高架化により約60m川崎寄りに駅が移動した
京急六郷土手付近1000形デハ1219
京急六郷土手付近1000形デハ1237
 ↑徐行予告標
京急六郷土手付近1000形デハ1201
 ↑↓徐行制限50km/hの位置
京急六郷土手付近1000形デハ1013
 ↑六郷土手駅 蒲田方 架線柱の駅間速度標にご注目
京浜急行1000形デハ1016六郷土手駅
 ↑六郷土手駅 川崎方 踏切の先は第一場内信号機に思える。
じぇじぇじぇ~!
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・店主的フィルムスキャナ比較
ビネガーシンドローム(フィルムが丸くなる)
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