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↑一直線に並ぶ架線柱を背景にバイクで帰宅の2人。
ジジイ店主から見ると青春を感じるなぁ~。うらめしや うらやまし~。
見渡す限りの田んぼで温室など一切見えなかった。
稲穂の「はざがけ資材」が小屋風に。台風でやられれば農家の損害は甚大。 |
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↑昼間に暖まった水田から水蒸気が発生して「もや」になっている。 |
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↑鶴岡に向かって一直線モハ7+モハ8
↓湯野浜に向かって・・・。モハ3+モハ5 |
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↑広大な田んぼの中のどこから歩いてくるのだろう?乗客2名様。
下の写真ですぐ近くに集落があるのが判明(苦笑) |
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↑ちょっと旅情風に。前照灯の感じが好きな店主。
注意のためか、薬剤散布の袋が案山子のように。
↓寅さんではありません。 |
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↑購入切符の地紋が「JPRしてつ」、「無地」、
集めてるんなら、こんなのあげる!
と窓口で頂いた切符に新潟からの社線連絡切符も
天下の国鉄様が私鉄の善宝寺駅までの連絡切符を作成していたとは、
それなりの需要があったのかも。「JNR」地紋だぜ~」
ちなみに右上の丸い穴は、子供発売で切り落とした部分を発売集計後
に子供額の証拠に紙コヨリで綴るために開けてある。 |
自社発注車モハ1,3,5 車体長12.432mm |
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↑モハ1号 |
昭和4年12月8日に開通時に準備されたモハ1、モハ5(旧番モハ2)、モハ3はやや遅れて昭和5年5月から仲間入りした。
モハ3は窓配置が変更されていて乗務員室の小窓とドア間の幕板が広めに取ってある。客窓が2枚少ない。
全車、日本車輌東京支店で製作された12432mmの小型車。
実は蒲原鉄道にも昭和5年モハ11~13が同メーカーで車体長も全く同じで登場している。
2度ほど、全車東洋工機平塚工場に送られている。
最初は昭和30年~32年にかけて1段落とし窓を2段窓化、運転台仕切り、MG搭載等の工事を行った。 2回目は昭和40年11月までに※直接制御を間接HLに、戸閉機、運転用各種メータ取付を行った。※開始時期の記載が無い
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↑蒲原鉄道モハ11。
日車東京支店のカタログセールスか?今なら庄交さんの後
にすぐ出来ます。ナンチャッテ会話があったのか |
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↑モハ1 前面下部に補修跡がある。
単なる錆落とし補修?台枠よりMGがはみ出している。
まぁ、ここにはぶつかるようなものも無いから。 |
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↑↓昭和49年夏再訪時のモハ1号 前照灯が外されて休車状態のようだった。
部品取りにされたよう。 |
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↑モハ3号とモハ8号 見た目モハ8の方が幅広ずんぐりに見えるが、
最大寸法はモハ1:2,646mm、モハ8:2640mmで元京王モハ8が6mm狭い |
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↑モハ5号
連結したときに相方のパンタの摺り板のカーボン粉が飛んで、
前面にびっしりこびりつき・・・。真っ黒に日焼けしたよう
清掃がされてないのを見ると相当な期間、相方と連結ポジションだったのか。 |
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↑モハ3+モハ5 |
モハ5は当初モハ2だった。この車に限って故障や線路妨害が多発したとのことで、忌番となって5に変更。
モハ5とモハ1の窓は位置は同時期製造なので同じだが、モハ3は半年後の製造でドア位置と幕板幅変更。客窓が2枚減っている。
その後、奇数番号で揃えたら9号に該当する車両が・・・。
これも「苦しみ」などに通じるとのことで忌番になりモハ8を名乗っている。
即身成仏の伝統のある出羽三山(湯殿山)信仰の地らしい信仰心篤い?エピソード
ちなみに即身成仏はミイラ(死後処理)ではないそうで、生きたままお経を唱えて絶命した修験者を指すそうです。 |
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↑↓トリミングして掲載。意図としては模型好きの方用に。
もう出回って不要と言われれば・・・。お節介ですいません。 |
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乗降地獄? |
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↑モハ1,3,5は開業当初からの施設に合わせたステップ付き。
※露出をガッチョリ明るくしました。
↓ モハ7、8、デハ101,103は都会育ちのためステップが無い。
と言うか改造しないまま入線している。特にモハ7は一番車高が高い。
この都会育ち3連写真でも判定できるので、
幼児やお年寄りには厳しい乗降だったと思われる。
下の鶴岡駅に留置中のモハ7の扉とホームの差をご覧頂きたい。
ホームとの隙間と段差がすごい。
当然、苦情もあったと思われるが、改造の資金余力が無くて
廃止まで運行していたと考えるのが妥当なのだろうか。↓(再掲) |
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モハ7 車体長14.071mm |
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↑モハ7 |
昭和3年3月京王電軌110形として京王電軌桜上水工場で雨宮製作所が出張工事で製作。
14m級の2扉半鋼製ダブルルーフ、トルペード(水雷)形ベンチレーターを付けたやや古めかしいタイプで12両誕生、約10年後の昭和14年以降3扉化される。※3扉化の正確な時期の資料が無く、出典はピク734号P95注釈39により推測
このモハ119号は大東急時代、2119号となったが、その生涯は不死鳥の如くであった。
■悲劇その1
戦災で車体を焼失し、昭和22年6月に桜上水工場敷地内で小谷野車両工業の手により、2118、2119がダブルルーフの骨組みを使用した深い屋根形状で復活。非対称に乗務員ドアが付いている
ちなみに焼失した110形の仲間5両は約8ヶ月毎に1~2両復活を果たしたが、この107号は昭和21年1月に1番手で復旧した。熱で鋼体が鈍って曲がっていたままと記述があるが、初回ロットの歪み取りのバグが原因か千歳烏山で2回連続連続脱線をやらかした。
その後修正して活躍したのか、日陰者だったのか?調査不足で不明。同僚戦災復旧車より約2年早く昭和28年11月に廃車。
日本鉄道自動車で再生され、昭和29年に庄内交通に入線した
■悲劇その2
昭和39年の新潟地震で車庫内で被災、台枠にヒビが入った。どのように復旧したのか。
普通ならここで廃車だろうが、モハ7は生き延びる。
その後主電動機を交換したり、昭和40年平塚の東洋工機に入場して制御方法を直接式から間接HL化、ドアエンジン取付などを行っている。その後たった9年で・・。廃線・・没、多分、ドアエンジン取付などは運輸省の指示でやむなくではないだろうか。 |
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↑モハ7車内。 流石に天井が高い。つり革支持棒や網のたるみ具合に年期を感じる。 |
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↑デハ101を湯野浜温泉で放置プレイ解結、留置して、2連で戻ってきた。 |
モハ8 車体長14.118mm |
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↑京王1500V昇圧で元京王電軌のモハ405が失職。 |
昭和38年11月に東洋工機平塚工場に入場、整備後、酒田機関区で方転。
再度、東洋工機に入場し制動装置や輪軸交換(ひょっとしてスポークなのでタイヤ?)等の改造
をして昭和40年11月に戻ってきた。
この間、どの位営業に就いていたのか不明。方転するために酒田に来て、またそのまま平塚返しカモと思う短期間である。
車両としては600Vで出物だったのかも知れないが、改造要素が多かった
これまた活躍10年程度だった。訪問時、元京王同士で組んでいた。 |
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↑モハ8車内
乗務員の出入りは車内両サイドの扉で出入りする。
モハ1グループの乗務員室全室化も同様の構造に改造された。
室内灯の配列がオシャレ?座席はモケットでなくビニール。
高速道路が未だ未完成の頃、「東京←→庄内直行バス運行、
帰省、上京は郷土のバスで」の広告。
もう40年以上前から「地産地消」の先端を行っていた・・・。 |
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↑モハ7+モハ8 この写真、色を江ノ電色に塗り替えて
40年前の江ノ電と言えば通用するかな?下が車両拡大
昇圧まで京王線をこの長さの車両が走り回っていたとは・・・ |
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↑モハ7 ブレブレのサイドビュー
客ドアの窓が中心に来ていない。京王時代からこうだったのか??
↓モハ8 エアタンク防護柵が付いている。↑
↑↓パンタ枠とシューの変形にご注目。 |
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↑モハ8ブレブレサイドビュー(苦笑)
元京王400形405号 京王線1500V昇圧で廃車。昭和38年入線 |