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↑夕暮れの高畠駅構内
糠の目に走行中のモハ4を除いた全車が揃う。
雪深い路線だけあって接触限界標識が背高ノッポになっている。
地方の鉄道で石造りの駅は珍しく、格調高い駅だった。
中央の車両は昭和33年にお輿入れした所沢工場が
他の私鉄用に売り込みカタログを作ったモハ3。
ネガが見あたらない。撮り忘れだとしたらイタイ!
モハ1,2より80cmも短い12.2mの小型車で窓にして1枚分少なかった。 |
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↑高畠駅の朝
眠っている電車のパンタを上げる。空気ダメの圧力が低いので人力となる。
名鉄などは運転台上部までヒモがあるが、ここのモハ1形一族は無い。
屋根に上がるステップは反対側でパン上げ後、パンタと架線を
避けながら反対側のステップまで戻らなければならない。
駅舎側にレバーがあるなら工場でステップを付け替えれば良いのだが。
絶縁率が下がる雨の日は滑りやすいし、どうしていたのだろう。
普通に考えれば命懸である。でもこの、のんびりした動作??
ひょっとして必要な車両のパンタを上げてから変電所に活線連絡をする!これに一票! |
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↑私鉄で見かけるパンタフック外しヒモ。
名鉄はつり革、非常用の赤玉をぶら下げる会社もある。赤を金にしたらって? |
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↑ 始発前の一時
あの小僧、鼻垂らして朝早ようから電車の写真撮って何すんだが~。
というような視線を感じたショット |
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↑ 山形盆地の霧が立ちこめる。 |
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↑ 糠の目から戻ってきた電機列車。一本柳駅場内信号が?? |
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↑ハフ1 |
■開業
糠の目~二井宿の開業を目論んだ高畠鉄道は恐慌状態の経済の中、とりあえず大正11年3月16日に高畠間5.2Kmの営業を開始。高畠~二井宿5.4kmは大正13年8月に遅れて開業となった。
当初、蒸気機関車2両とロハフ1両,ハフ1両の2両で運行開始、大正13年に青梅鉄道からハ4とロ1を購入し2等車(ロ)1両、2,3等合造車(ロハフ)1両、3等車(ハ、ハフ)各1両、合計4両の客車と貨車で営業した。
■電化
昭和4年8月に電気運転が開始された。
電化の理由に大正4年高畠町に東置賜郡総町村組合営電気事業が開始されて手近な電力供給源があったことや、運行コストを下げる狙いがあったと思われる。それとも大口需要家として見込まれたのか。
しかし、一気に電気車に置換える資金力がなかったので、新造車両はED1(旧キ1)とモハ1の2両のみ。
次は4年後の昭和8年2月にモハ2が増備されて新車としての増備は終了になる。
あとは全て西武所沢リサイクルセンター(店主命名・・苦笑)の中古車が追々購入された。
電化直後は電車または電機の運用が不足した時に蒸気機関車が運転されていたようだが、昭和9~10年にかけて日本鋼管鶴見製鉄所に売却された。
電化以来の増備は昭和33年にモハ3迄無い。尾花沢線から初代ハフ3が昭和33年頃に入線。昭和39年にED2が増備された。
この昭和33年の時点まで使用されていた状況と思われる。
開業以来蒸気にお伴していたハフ1、2がED1またはモハ1、2に牽かれてトッテントッテン使われていたのではないか。
モハ4(S41)が入線した頃は休車でお役ご免だったようだ。その後クハ1(S43)が入線した。
※高畠線の電車は総括制御が不能なため、進行方向の車両を牽引車として使用し、運転士、車掌の2人乗務としていた。
写真は昭和42年に西武が引き取り、小手指区に留置されている時点だが、開業時はバッファーだったので跡が残る。
自連のステーも何か怪しい作りのような・・・。
スポーク車輪のタイヤ部はすり減って使用限界を超えているようにも思える。一度も換えなかったのかも。
↓ハフ2(旧ロハフ2:2,3等合造車) |
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入線当初のモハ1とモハ2のドア、窓配置等について |
鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり特輯【第1輯】山形交通川上幸義氏、
長友俊明氏撮影による改番、更新前のデハニ1と2の写真が掲載されていますが、
この2両ドア配置が違います。
この写真を基にコラージュして往時のドア窓配置をしてみました。
本来のドアの造作はR無し横桟入り木製ドアです。 |
モハ1(デハニ1) |
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↑荷物ドアと客ドアが柱で仕切られ運転室側が小窓、
次位窓はドア幅に対応した窓(コラージュは同じ幅なので注意)である。
↓更新工事のため西武所沢工場に送られて、昭和34年にモハ1として再デビューした。
荷物ドアを撤去し乗務員ドアを取り付け、後位も小窓を乗務員ドアに改造した。
改造によりドア間の窓は8枚→9枚になった。
推測ではあるが、モハ1(こちらが怪しい)か、
モハ2のどちらかのパンタは改造時に前後に載せ替えたのかえられたか
向き更新時に所沢工場で向きが変わったか、高畠のターンテーブルで
向きを変えたのか(乗せられるのかは不明)、最初からそうだったのか
(普通考えればそうだろう!)、写真だけでは釈然としない部分がある。
思考能力不足かも・・・。多分そう・・・。スイマセン。 |
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モハ2(デハニ2) |
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↑荷物ドアと客ドアの間に窓が挟まれた形で竣工。
後位の乗務員ドアは無い。
↓モハ1に遅れること3年、昭和37年7月にモハ2に改番デビュー。
レイアウトはモハ1と同じに変更された。 |
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↑自社発注、全長13mの昭和4年製モハ1(13004mm)と
4年後に入線した昭和8年製モハ2(13014mm)更新後の日車兄弟 |
モハ3 |
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↑今となっては地方鉄道のワンマン運転用にぴったりの車両形態。
しかし、12.2mとお伽電車の世界になる車長。昭和33年入線
この車両、西武鉄道所沢工場が「地方鉄道の支線用電車(山形交通納)」
とS33.6でカタログを製作している。 ※出典:ネコパブリッシング刊
この車体に56.3KWのモーターを2個搭載、先輩1,2号の37.3KW×2個。
5割近い大出力、ギア比もモハ1,2の4.78に対して3.38、
車重18.5tVS17.8t車輪径860mmが同じではモンスター級の高速車両であろう。
実際何らかの調整はしているだろうが、貧弱な高畠変電所が1カ所200kwで
給電している状況では負荷が増大することには違いない。
終端の糠の目では電圧ドロップがかなりあったのではないだろうか。
ED1シリーズが(1=55/2=56Kw×4)有荷混合客貨物を牽引対向している場合は
運行自粛かも・・・。実際の運用状況を調べていればと悔やむが洟垂れ時代はそんな余裕も無し・・。
高畠線の車両番号は1桁で付番、三山線は基本3桁の付番(モハ1~3を除く)であった。 |