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↑↓羽前高松駅に到着した混合列車。乗客を降ろすと左沢線連絡収受線に入れ換えを行う。
左側収受線の貨車がいるところに場内信号機がある。ここまでが山交線の管理(分界点)なのだろうか。 |
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↑押し込んで引き渡し用に組成する。電柱の裸電球配線が素晴らしい。 |
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↑山形交通三山線羽前高松駅。屋根に合わせた看板が珍しい。
出羽三山象徴の形かも? |
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↑宅配便なんて無かった時代。手荷物が結構あった。
海味駅止めの「家族計画協会」の箱が結構つぶれている。
ヒモで工場出荷物と判断? |
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↑さて、海味駅。側線が業者の解体線として使用されており、
マユ34形郵便車が解体されていた。※マニではありません念のため |
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↑主力車モハ111号、この車両の間沢側に雨樋が無い。羽前高松側は
↓ヘッドライト後方に直線的に設置されている。 |
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↑主力車モハ112号 西武所沢車体更新販売車。雨樋は塗り分け境界線になっている。
三山線の車両はウインドシ-ルを前面に回しているのが特徴。衝突対策か?無ければスマートと思えるのだが。
晩年、106を除き三山線の稼働車は西武所沢工場で何らかの更新工事をした車両のみとなっていた。
111、112号は主電動機75kw×2、間接非自動制御方式 総括制御-可
ちなみに晩年に製作された路面電車の主電動機は45~50KW×2仕様が多い。 |
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↑モハ106 |
元車は各務原鉄道(名鉄)のK1-BE形と名乗るモダンな形式称号の車両。
名鉄となってモ451号となり、戦後の大型国電配給により、昭和22年余剰車として当線に入線した。
昭和31年に日車東京支店で現在の姿に更新(車体新造)されて最後まで活躍。
山形盆地の夏は暑いので、106では運転台隣窓が上昇するよう要請があったのだろう。写真が真冬ですいません。
主電動機44.8×4個 直接制御方式 総括制御-不可
↓三山線廃止後、蒲原鉄道にモハ91としてお輿入れ。主に朝のラッシュに使用される3連組成車として廃止まで働いた |
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↑モハ107 昭和30年、入線時は下の静鉄モハ20形のような姿。 |
約8年後の昭和38年、西武所沢でバス窓車体に更新にしたが、前面は一段窪みを付けて、湘南形のように中心から左右にくの字型の傾きを付けた窓を傾けない2枚窓。この程度の傾斜じゃ、平板にぺったり2枚貼っても同じじゃないかと店主的に突っ込みたくなる。
薄鋼板にHゴム付けて窓を固定する上手な方法
入線時のスタイルは僚車の写真で想像ください。
鶴見臨港鉄道モハ100形112号(新潟鉄工製)→国鉄編入→電装解除後、形式称号改正クハ5540→払下(東洋工機車体更新)→
昭和30年山形交通(三山線)モハ107号(新車)として届出(おおよそ下記の写真のスタイル)→1963年西武所沢車両工場でバス窓車体更新 主電動機48.5kw×4 直接制御方式 総括制御-不可 |
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↓同僚の元鶴臨モハ110形(ステップ切り上げ) |
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↑モハ105(2代目) |
旧西武クハ1111を所沢工場で電装化(間接非自動制御)の上、入線。車体長13900mm
昭和40年に使用開始とする記述もあるが、昭和39年8月に同時期に入線した同僚のクハ11(旧西武クハ1112)と同時の使用開始ではないかとの疑問が湧く
モハ105とクハ11が手を組んで走行したことがあったのか?41kw2個モーターの105号では非力だったのか?小型すぎたのか
模型としては素晴らしすぎる地方私鉄編成だが・・・。
入線後数年してトレーラー化され、パンタは撤去したものの、最後まで形式はモハのままだった。
なお、初代は昭和12年に入線した南海のクハ1861を電装化して購入したモハ(ナ)5が襲名していた。 |
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↑同僚のクハ11。昭和39年入線。車体長13900mm、3扉。
ジャンパ線が制御車ということで2本増えているが、なんともだらしない。
雪国対策で高い位置なのか?モハ111、112は違う。
高畠線にもクハ1として昭和43年に売り込まれたが、こちらは14440mm2扉。 |
本稿を記すに当たり、RMライブラリー山形交通高畠線・尾花沢線(鈴木洋・若林宣共著)世界の鉄道’74、
鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり特輯【第1輯】山形交通川上幸義氏を参照させて頂きました。
当時、鈴木洋大先輩から東北話を良く聞かされており、廃止間際の山形交通を訪問できたのも
大先輩の耳打ちと謝意を表します。 |
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