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弘南鉄道黒石線+下北交通開業時小話
2023.11.21 Ver2.01 |
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↑弘南黒石駅が最大に大きかった頃 |
国鉄黒石駅構内は写真左側の空き地並びに住宅の部分にあって、弘南鉄道黒石駅と隣接していた
弘南鉄道が引き受けるにあたって弘南黒石駅にSカーブで線路を延長敷設し、同一駅とし、3,4番線ホームを新設し、1984(S59)11月1日弘南鉄道として3路線目が開業した。
当初は譲受したキハ22を3両を使用、1995年小坂鉄道からキハ2100形2両を譲受して、キハ2230を予備車に3両態勢で運行。キハ2100形が停車している側の4番線を通常使用ホーム、3番線は代走の予備車を留置していた。
3番線は架線が貼られ、電車、電気機関車も入れるようになっていた。
この他、開業にあたり黒石駅弘前方に検修庫、給油設備が設けられ、内燃動力車免許所持の乗務員を確保したたが、新たな内燃線によるコスト増を招いた。 |
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↑黒石駅3番線にキハ2200形2230、4番線にキハ2100形2105 |
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↑ 1984(S59)、国鉄黒石線から転換に際し、前もって9月に酷寒地向け耐寒装備の両運転台キハ22形3両を譲受した。 |
弘南鉄道の形式はキハ2200形とされ、元キハ22-128は2210、22-130は2220に22-143は2230に改番された。
塗色は弘南色になったが、車体が大きいため黒石駅では南海グリーンよりも目立って威容?感が漂っていた。
検修費用のかかるATS装置は行き違いや2列車運行をしないことで撤去、トイレは短区間で必要性が無いため閉鎖した。
1987(S62)にワンマン化工事実施の際、トイレ及びデッキ仕切りを撤去、座席を延伸した。 |
3両とも1962(S37)新潟鐵工所製、入線にあたっての改造は秋田の土崎工場で行われた。 |
廃車は1995(H7)年に2210、2220の2両が、小坂鉄道より2100形入線により、廃車された。
1998(H10)黒石線廃止時に残った2230が廃車された。 |
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↑キハ2100形2105 |
1995年(H7)同和鉱業小坂鉄道からキハ2107と2両が譲渡された。番号はそのまま引き継いだ |
↓同和鉱業小坂鉄道時代のキハ2105 |
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↑同和鉱業小坂鉄道時代の非ワンマン写真。その後ワンマン化され、前照灯もシールドビーム化された
↓入線後は各扉上部に雨樋が取り付けられた、 |
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↑↓往復撮影 ※小坂鉄道線の走行写真ではありません。念のため(苦笑) |
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前田屋敷停留場 |
待合室は極寒強風対策のドア付。2200形導入によりホームは長さ1両分がかさ上げされた程度(川部駅も同様)
田んぼとリンゴ畑の真ん中で周辺の人家はまばらで、朝夕以外の乗降客はいたのかと思えるほどのロケーション?
黒石からこの線を利用する人は青森方面か五所川原方面以外にはいなかったのではなかろうか
当時の樽沢社長は黒石線を電化して循環線構想までぶち上げていた。弘南鉄道の経営者にとっては1955(昭和30年代)~1965(40年代前半)はそれだけ収益が有ると考えられた時代があった。
弘前電気鉄道も経営難で樽沢社長に救済合併をしてもらっていた。 |
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↑↓開業時はキハ2200形の2連もあったが、乗客漸減により、終日1両のワンマン運転となった。 |
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運転士さんによると小坂鉄道からやってきたキハ2100形は冬期間、吹き荒れる津軽平野の風に立ち向かう力が弱く、到着定時と行かないことが多かったそうな。
キハ22(と言っていた)の方が安定した走行が出来たそうで、本当はキハ22形の方が良いのだが、燃費がかかるから会社に嫌われて、これ(キハ2200)になったようだ。とのお話を聞いた。
しかし、エンジンの表上スペック※はキハ2100の方が20馬力も大きく、やっぱり国鉄仕様と違う点があったのかも知れない
※ キハ2100:振興製DMH17H形180PS、1500rpm、
キハ2200:国鉄制式DMH17BorC形160PS,1500rpm |
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↑↓田んぼとリンゴ畑の中を走る。あまりの寒さに風よけの場所も無く早々に退散した。 |
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↑田んぼとリンゴ畑の中をひた走る |
乗客は転換翌年の1985年に転換後最大の30.7万人/年を輸送、転換前の約2倍近くの実績を上げた。
しかし、その後は廃止年までに輸送人員を平均▲1.2万人/年程度づつ減らして赤字も累積し、
1998.3.31限りで廃止された。約13年後のことであった。
当初の電化循環線構想(樽沢私案?)とは違った非電化路線のため、設備投資(車庫や機材)や人材も電車、内燃車の2種になって効率も悪く、黒石と国鉄川部駅で乗換する旅客の便宜を図る専用線?でなんら地域の発展地図が無い中で、乗客が増加するわけも無く、時の地元も「弘南のトップのトップに頼めば何とかなる」で転換存続したのだろう。
当初の数年間は補助金なども出たが、当初から焼け石にリンゴ(米)?であった。
設備も更新する時期になって、この乗客数では・・。と1992年「黒石線活性化推進協議会」が設置され、地元協議を重ねて廃止に踏み切った。「活性化推進協議会」が設置されてから6年後であった。
そういえば「存続戦略協議会」という名を思い出した・・・。
※数値出典は弘南鉄道弘南線wiki
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↑キハ2200形2230の最後の姿 中間はキハ2107
弥生の里(道の駅いなかだて)に子供向き?に塗装されて一時は活用されていたようだが、
その後は荒廃する一方で、管理もままならぬ状態になって2013年11月17日以降に順次解体された。
※この2枚の写真は田んぼアート駅の項に使用した再掲。
↓キハ2100形2105 |
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本稿作成に鉄道ピクトリアルNo.862服部朗宏様
の弘南鉄道記事(部分)を参照させて頂きました。御礼申し上げます |
(付録) 同年代にバス事業者が引継いで開業した下北交通大畑線について |
当時の青森県に敷設された鉄道の地元は存続に熱心で、民鉄は弘南鉄道、津軽鉄道、十和田観光鉄道があり、国鉄の廃線候補だった大畑線※、黒石線は存続の要望が強く、地元交通事業者が引き受けた。
※バス会社の下北交通※引き受前の会社名は下北バス。1984.2に社名変更
■下北バスが大畑線を引き受けたのは、南部縦貫鉄道が将来、東北新幹線の七戸駅設置を前提に大畑線を引き受ける事業拡大構想を察知したため。
下北半島の交通網を自社でまかないたい(独占)ことから、バス専業の会社が鉄道事業を開始する異例の展開となった。
■未知の鉄道事業にどう対処するか思案の結果、中古バスで取引のあった京浜急行電鉄に支援を要請、社名も変更した。
開業にあたっての公官庁(仙台)との業務や鉄道関係のノウハウを京浜急行から全面的に受けて開業した。
京急では担当者が現地に仮住まい?をしたり、関係者が新幹線で仙台(監督官庁)あるいは、羽田から青森・三沢空港経由で下北へ打ち合わせに往復、開業に向けて支援されていた。
■車両は1985年(S60)7.1に開業することから、譲受したキハ22の形式をキハ85に変更した。
■開業後1993年以降には利用者がさらに漸減し、鉄道全体の老朽化もあって、約16年後の2001年4月に廃止された。
■その後、京急との縁は排ガス規制問題などから中古バスから新造バスの導入に時代が変わってほぼ無縁となっている |
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↑↓3ツ折の記乗の一部 車体の色が何だか・・・ |
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↑記乗に竣工図とマニア好みのダイヤを掲載。
発注元はデザインの時点で「鉄」のこと、なんも知らんらったらしく
車両形式で無く機関形式を記載し、ダイヤは途中切れありの大慌て作成らしき「珍品」記乗
大畑出庫の列番が「0D」という珍番号の列車がある。普通は偶数番号の最初は2Dとかに
なるのだろうが、出庫から走行する列車の順番を分かり易くしたのかも。ナゾ~。 |
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↑多分使用しないのでは?の前提で切り取り線無く台紙に直接印刷した乗車券。番号は3ツ折の裏側に↓ |
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↑開業時の業務用列車ダイヤはタイトル枠から書式?担当者の文字筆致やスジ色まで??某社の伝統あるダイヤ「そっくりはん」の驚きのものだった。
但し、秒時刻は長閑な運転なので?必要が無いらしく某社ダイヤと違って記載が無い。
※通販の同梱記念品で下北交通の業務用と同梱したと思う店主。 |
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※店名略称:フィルムスキャンs、通称店名:鈴木写真変電所
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