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↑高畠町で一泊し、6:34の朝一番に乗車。一本柳で下車してロケハンと言っても2番列車まで22分しかなく、駅至近の場所で待つ。
高畠6:56発の2番列車はED2が牽引する混合でやってきた。通勤?通学で山形市内に行くにはこの列車で乗り継がないと、次の糠の目発山形方面行きは8時37分まで無い。旅客車は一番大型のカワゾータイプのモハ4が連結されていた。のどかな朝の風景であった
ED2の僚車は遠州鉄道で今も健在なのが嬉しい。→こちら掲載ページ下部のため、画像が出るまで時間がかかります。)
本稿を記すに当たり、RMライブラリー山形交通高畠線・尾花沢線(鈴木洋・若林宣共著)、世界の鉄道’74、鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり特輯【第1輯】山形交通川上幸義氏、長友俊明氏撮影画像を参照させて頂きました。
当時、鈴木洋大先輩から東北話を良く聞かされており、廃止間際の山形交通を訪問できたのも大先輩の耳打ちと謝意を表します。 |
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↑快走するモハ2と書きたいところだが、高畠線の最大の特徴はほぼ全線に亘って相互式レール継ぎを採用しており、その走行音はタタ、タタ♪タタ、タタ♪と独特のリズムであり、機関車あり、貨車(2軸)あり、車体長の違う電車達が奏でる音は得も言われぬ継ぎ目音であった。勇躍、録音すべく冬に再度訪問したら大雪で運休・・・行く時間がない!廃止。録音趣味部門?人生最大の後悔であった。 |
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↑↓夏休み中だが下校した学生を詰め込んで高畠に向かうモハ2 |
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↑↓夏休み中だが下校した学生を詰め込んで高畠に向かうモハ2 |
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↑夕方近くになって最大の収容力を持つモハ4号が糠の目に向かう。 |
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↑モハ4号が糠の目に行っている間のスナップ。
架線金具がトロリーポール用のモノと思われるが、電化当初がポールだったとは思えないが。←不勉強 |
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↑山脈が2つあると判明する山形盆地。カビカビフィルム・・・。 |
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↑一本柳駅に到着するモハ1
窓ガラスが小型なのは昭和4年当時の製造技術と単価の兼ね合いでそうなったものではないか。 |
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↑乗ってきた糠の目行き1番列車を後追いする |
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↑ホームの無い側に運転台があるため、一本柳の駅員さんはわざわざ線路際にタブレットを受け取りに出かけた。
駅事務室に持ち帰って通票玉をチンチン箱に出し入れして新たに渡したのだろうか?
撮影に夢中の小僧だったので、始終を見届けてれば良かった・・・と後の祭り。 |
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↑高畠町内にあるジークライト工業へゼオライト鉱石を運ぶ混合列車。
要員の関係か定期混合列車のみで貨物を輸送していた。
奥羽本線板谷駅で積込まれ、糠の目駅着で編成を分割し輸送した。
高畠駅から専用線が延びていたが、時間の関係で撮影出来ず
これも大きな悔いとなっている。
高畠線は糠の目~高畠間が田園地帯で平坦なため、意外とあっさり加速していた。 |
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↑糠の目駅。手荷物はリヤカーで旅客車に。
貨車は通運業者のDB入換機で交流2萬ボルトと直流600ボルトの間を入換えた。
この程度の有効長なので、長大な貨物編成は無理で分割された。 |
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↑往復のどちらかに荷が無い場合は、機回しして常に電機が先頭になり
電車は電源用にパンタを上げて客車扱いで運行していた。 |
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↑高畠駅から約340mある専用線。ジークライト化学礦業工場(元片倉紡績製糸撤退)まで延びていた。
凸電でこの風景、若松市営線の想い出が脳裏からしみ出てくる。 |
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↑夏休みで学生が少ない。 |
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↑モハ2、昭和8年の日本車輛製だが、600V直接制御のマスコンに「神戸川崎造船所・安全第一」の銘板が貼られている。
川崎造船所は昭和3年に分社して川崎車両になっている筈だが、
現場が混乱して独自に製作したのか、はたまたマスコン自体が他車の流用、積替だったのか??
市内電車の立席運転用のマスコン規格?で、運転士さんの左手は肩の高さである。
夏らしく乗務員の帽子は白カバーを被せるオシャレな会社であった。 |
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