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岳南鉄道の車体更新車モハ1100形。
日車標準車体と言われて久しいが、同じ時期鉄道事業者と製造事業者
が18m車の標準化を推進していた。派生ではないかと。その謎も |
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↑岳南富士岡駅 |
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↑EF15168の牽く国鉄貨物(吉原~東田子の浦間)がまだこのような頃、
富士市の吉原周辺は日本を代表する製紙工場が多数立地して、ヘドロ汚染、大気汚染で有名であった。
小児喘息系の 店主は撮影に行って、地域全体に漂う異様な臭気(空気)のお蔭で不安が的中、帰宅後、気管支炎を発症した。
以来、近づかないまま、2016年まで時が流れてしまった。その後は岳南電車2016年編に |
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↑訪問時、車両工場はお化粧直し中。結果、↓のように駅構内で列車の洗浄を行っていた。
洗浄線が無さそうで、何時もこうだったのかも知れませんが? |
モハ1100形 |
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ここで少々脱線します。 日車標準型という通称名の謎 |
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↑トップナンバー(1エンド側)。 車体長17,030mm
岳南には 日車標準型と謳われる車両1100形が5両いた。銀行の関係からか製作会社は2社で5両納入した。
内訳は日車東京支店3両1101,1103,1106、汽車会社は1102,1105の2両、うち1105はセミステンレス車で納車している。
図面は同じであるはずだが、「日車標準形」の図面でとなると汽車会社は図面の提供を受けただけなのか?以下の考察で疑問が湧く
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↑新潟交通モハ19(S35製) 車体長17,030mm
新潟交通は湘南形の造作で¥安と運転台に寒風を入れないためか、2枚窓で納入されている |
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↑松本電鉄モハ10形101号 車体長17,000mm。
貫通路幌座の無いタイプで、車掌通り抜け用保護柵を付けている。 |
しかし~ぃ~である |
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↑栗原電鉄M15形 車体長15,700mm 完全新車。昭和30年に竣工届け
栗原電鉄のM15形車両は竣工届けの年次で行くと、車体長は短いモノの1番手として登場 。日車標準に似てると言われながら一番早く世に出た。
だったら一番手なんだからナニワ工機標準じゃん。
これはどうしてなの~お~ぉ。
店主的にこの謎を推察するに
昭和27年以前から私鉄経営者協会技術委員会において電車標準化の動きがあった。
※戦後の大混乱時期に各社バラバラのデザインや規格では著しく車輌製造会社の生産能力に影響するため、鉄道業界内での規格化の話し合いがあり、発足に向けていろいろな地ならしが行われていた。標準化は18m車が対象。
その委員会の地ならし情報を抜け駆けして活用し、対象外の地方私鉄に適用すれば、戦後、疲弊した地方の鉄道にいち早く売り込みが出来る・・・。なんていう思惑で各社が動いたのでは・・・。
<電車改善連合委員会>
昭和28年1月に私鉄経営者協会技術委員会内に「電車改善連合委員会」が設置されて活動を開始、翌29年3月に標準電動機仕様書、同年の5月には標準台車仕様書を制定し、
昭和30年6月に原案がまとまり、8月に私鉄経営者協会で「電気鉄道車両用標準車体仕様書」として制定された。
※店主想像
発足以前~発足後の担当者の調整会議は相当回重ねられ、花道が出来たところで、全国の経営者が一堂に集まって「制定」となった。
鉄道事業側の担当者はそれぞれの取引先メーカーと主張すべき点を整理して、風呂敷に資料を包み、小脇に抱えて、その課題を持ち寄って遠路はるばる様々な会議に参加して議題を進行させたのだろう。
電話もまだ満足でなく、複写機も青焼きが最高級機?、鉛筆、烏口と製図板で原案を作るための、多量の郵便物や小包が行き交ったのでは無かろうか。
このような会議がどのくらいの期間、回数が行われたのだろうか。東京以外からの出張はこだまも超特急もなく、直角座席の夜行だったのか等々、当時のナイナイづくしの環境で、鉄道事業を復興させていこういう御努力を想像するに頭が下がる。※結構、飛行機だったりして(苦笑)
この会議には鉄道事業者の委員会なので製造会社は協力会社として日本車輌本店、日本車両支店、ナニワ工機、川車、汽車東京製作所、日立笠戸、近車、帝車、新潟、東急車の10社が名を連ねている
この委員会は、今後の見通しとして車体を18m車とした大手私鉄用に6種類の車体を制定した。
※20m車の導入は国電63形割当を走らせた数社しか無く、施設改良まで手が回らない状況下での最大公約数ではなかったのか。
<地方鉄道標準形車体のルーツ>
委員会は中小地方私鉄用はとりまとめていないので、「電気鉄道車両用標準車体仕様書」に定められた車体記号「L-2L(区間車用)」の車体を両運転台として窓寸法を調整してデチューン?すれば、ナニワ工機、汽車会社、
日車東京支店と金太郎飴車体が出来ることになる。
※一番の採用例の多い車体として考察
委員会の制定は台枠から、溶接方法、ドアや金具類、配管、塗装仕上げまで用途別に設計図、指示書が示され、応用すれば、車両設計認可も楽だったのではないだろうか。
窓については軽金属と指定してあり、「ユニット窓は経験が浅いため指定しない」とあり、Hゴムの指定も無い。
たとえば地方鉄道向けの注文取りに興味があると思われる製造事業者(協力会社の範囲内で想定4社含む)は、昭和29年に日立が納車した大分交通の300形の上窓Hゴム形式でいこうや。としていたのではないか。
↓大分交通別大線300形2両の増備として客ドア位置が両端から車掌扉側が中央に寄った写真の500形502号
500形は501,502がS31に、503~507の5両はS34に各々東洋工機で製作された。
連結運転可能、写真の502は上部のヘッドライトは撤去されいる。全車ダミー化?? |
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とすると、
「日車標準型」という呼称は源流を私鉄経営者協会技術委員会「電車改善連合委員会」の「電気鉄道車両用標準車体仕様書」に求められるのではないか。
原案検討中に4社?が地方私鉄向け車両の売り込みを検討、ナニワ工機と帝国車両は全新品の車両を受注成功。汽車と日車東京支店は図面で売込んで、タネ車の下回りを流用、箱屋の力業で機器移設をする安価タイプの車両受注ストーリーと思える。
そうでなければ、一番に登場させたナニワ工機が原設計者として、「ナニワ工機標準型」と呼ばれるべきではなかろうか?
日車東京支店の売り込みが奏功してダントツの納車数から「 日車標準型」と呼ばれるゆえんだろうが、この筋書きであれば 日車だけが「標準化の名誉」で良いのかどうか?
以上が事実であれば、店主的には「地方私鉄向け標準車体」等の呼称に変更すべきではと思う次第。
謎の解明は???
余談であるが、日車本店のお膝元、遠州鉄道にもその影響「E-2LF(急行用車体)」があると思われる湘南車両モハ30系(片開扉)もあった。
この見方で全国の昭和30年代初期の車両は、なにがしか関係している車両ばかりである。
もっとも、そのための標準化だから・・。
また、九州地区として西鉄、西鉄北九州営業局、大分交通が委員会に参加している。
西鉄大牟田線の1000系特急車(標準化図面:E-2LF-↓2段目の下図)の車体デザインの源泉はこの部分であろう。
日立は昭和29年大分交通に上窓Hゴム使用の300形を納車した。委員会でデザインの論議が始まる前に実績作っちゃえ的な窓とも感じられる。
上窓Hゴム思想は日立が源流なのか?大分交通は300形を日立に発注し、以降の発注をほぼ似た設計で、東洋工機とした。
日立は「小型少量生産より大形の大量受注だぁ~」と言って東洋工機に投げてしまったのか?東洋が安値で受注したのか?
さらに岳南1100形より1年早いが、西武(所沢)がカタログまで作って売り出した自社旧型車のリメイク小型モデル(山形交通高畠線モハ3)は、地方の鉄道の凋落を知っていても、
工場の稼働率向上と自社老朽車有効処分を目的に更新修繕手数料込の販売したかったのではと感が深い。モハ3→こちら
しかし、流用のコンセプトは同じでも新造車体の魅力が上回ることは想像に難くない。第一、この車体で足りる輸送力では赤字が必至。
※西武のカタログはネコパブリッシング刊RM LIBRALY 82号(鈴木洋、若林宣共著)P51に掲載されている。 |
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↓西鉄1000系特急車両のデザインの源泉と思われる図 |
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標準車体 L-3Lと標準主電動機仕様書は→こちら相鉄その1に記載 |
んで、1100形に戻ります。 |
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↑モハ1101号2エンド側(下回りレベル上げ) |
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↑モハ1101の車内 セミステンレスの1105のみ床材がリノリウム貼り |
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↑モハ1102が衝突事故で廃車になり、忌番の4が付く1104が元々無いので、店主が訪問した時、モハ1100形は実数4両であった。
元小田急車のモハ1107(最終形式番号はクハ1107)、モハ1108(デハ1607)は非カウント |
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↑訪問時の時代でも昼間はガラガラ、日中は日産前(現ジャトコ前)を通過していた記憶がある。
いちいちクハを切るのが面倒だったのか?なかなか豪華な2両運行である。 |
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↑>登場当時のライトはシングルライト。シールドビーム2灯化の際にオシャレにケースをステンレスで車体に合わせた。
幌付き撮ったど~っ
汽車会社は153系のステンレスのサロ153-901・902を1958年に試作しており、1959年製造なのでほぼ同時の地方向け?の最初で最後の試作車。
鉄道車両の輸出振興目論みもあったのだろう。なんと、翌1960年(S35)、鉄道技術研究所で開催されたARCアジア鉄道首脳会議車両展示会に出品展示された。
というものの、実際に動かしたらヤバクナイ~。綺麗な車体でウンガ~ァ音出たら・・・。で、留置展示のみ。
国鉄と私鉄は、軌間が同じなら、ほぼ線路がつながっていたため、簡単に「ステンレス車借りるよ~」とか「ちょっと工場(国鉄)で車輪削ってや」とかで、貨物列車に挟まれて鉄路移動が主流だった。 |
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↑1106号
1100形は幌枠座の奥行きはかなりある。最小カーブの関係? |
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↑空気を運ぶ末端区間。↓当時から工場もない江尾までなぜ路線が敷設されたのか。それは何故?? |
クハ1100形 |
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↑小田急のクハ1351を譲受、クハ2602とした。1979年には再改番クハ1107に。
なおこの車、小田急開業時のモハニ154という骨董品。
片運転台車となっている。連結面端の窓上に埋めた様子がくっきり。 |
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↑改番は相棒のモハ1100形の関係か?何故か改番の統一感が無い。1981年7月に廃車 |
モハ1600形 |
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↑東急車の動向は鉄道誌などで結構目立つが、小田急車はファンが少ないのか情報量で少々ひけをとると感じている。
小田急車が結構在籍したが、その後入線した東急5000系より目立だたなかったような。3連組成とはそれだけ乗客があったのだろうか。 |
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↑1603の台車 |
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↑モハ1600形1603 (小田急デハ1602号)「1」エンド側 |
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↑↓何という奇遇。中ガキ時代にオリンパスペンFで江ノ電撮りに行ったついでの何枚かに1602号が写っていた。 |
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↑クハ2100形2106
元小田急クハ1650形1659 ←「1」エンド側 相棒はモハ1108(小田急デハ1607)、増結で1603の3連を組んだ。
モハ1108の写真は後方に写っている。拡大したら1108と何とか文字が読めた。 |
モハ1900形・サハ1950形 |
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↑ モハ1900形1905 (小田急デハ同番号)相棒はサハ1955とモハ1602。「2」エンド側→ |
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↑中ガキのハーフ写真。
同番号車ではないが台車が何回か取り替えられている。おでこの雨樋カーブしてたのね。
う~ん車両番号が191までは読めるが尾灯とコンクリート柱で見事に隠れている。 |
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↑モハ1905台車 |
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↑サハ1950形1955 岳南唯一のサハ。←2エンド側 |
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↑サハ1955の非常にシンプルなOK17形台車。 |
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↑この後の台車型番は京急採用の著名なOK-18形。あまりの進化?にびっくり。 |
クハ2600形 |
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↑↑ クハ2600形2601
小田急1600系のうち、この車両のみが1100系列と組成している原因は、
制御器を1100系列のCS系に対応させているためと「岳南電車wiki」」に記載されている。 |
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↑元小田急デハ1608→岳南クハ2601号に 昭和47年1月譲受 1形式1両 |
■本稿を記述するにあたり鉄道ピクトリアル通刊431号 岳南鉄道(寺沢新様、登山昭彦様共著)、
世界の鉄道1966を参考にさせて頂きました。
また、説明部分に「岳南電車wiki」にリンクさせて頂きました。御礼申し上げます。 |
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※店名略称:フィルムスキャンs、通称店名:鈴木写真変電所
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