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【京浜電鉄歴史】
連結運転開始 K-1形連結器,湘南電鉄ト1形
2022.12.22 Ver2.06 |
明治41年の京浜電鉄ボギー車の連結運転申請は「詮議難相成・・」 |
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明治41年3月17日付けで上記の命令書一部変更願を願出した
※黄色着色部分は申請理由のチョイス
記載内容を簡略箇条書きにすると
(1)小動車(単台車)の時代にトレーラー(サハ)を連結する認可は受けていたが、1両につき35尺※約10.6mを超えてはイケナイと規定されていた。連結器はリンク式でバッファーで緩衝する方式
(2)大森駅延長当時、八幡電停(後の海岸電停)以南は国道上を複線または単線だった。
(3)現在(申請時)は国道上の併用軌道は蒲田~六郷間に過ぎざる次第←過小評価気味・・・。
(4)本線車両はボギー車を使用して小動車は支線で使用している。祭日、大師、穴守等縁日には運びきれない。車両続発は危険で車両数も限りがある。
(5)ボギー車の2両連結をしたいので、特別の御詮議をください(決まり文句)
とした。 |
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役所の回答は
線路(国道上の併用軌道)は近年著しい戸口増加傾向で交通益々頻繁の状況有り、長大車両によって交通妨害となるので、特別の御詮議の結果として(笑い)「詮議難相成」(却下)とされた。
これで、国道上の併用軌道を廃止するまで、ボギー車の連結運転を絶たれてしまった。
※軌道法なので、運行に当たって警察署の権限が大きく、猛反対の東京市警察に比して専用軌道のみの神奈川県警は差したる障害は無いと回答している。 |
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===ボギー車連結運転の申請=== |
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■大正14年11月16日付で
混雑緩和を図るため、第1期計画として品川(Ⅱ)※~蒲田両停留所間のボギー車連結運転
の運行を申請した。※現:北品川,品川(Ⅱ)
■認可は大正15年5月13日
※設備に関してはT15.12認可(※沿革誌) |
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↑申請内容の工事方法書 |
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■役所は工事内容の照会を2度行った。2度目の照会と回答が最左の「追申事項」
(1)車両の最大長は前後連結器の連結面間隔として明示
・40号~50号 50呎8吋
・51号~70号 50呎1吋
(2)品川~蒲田間の各停留所(延伸計画)設計図を提出、延伸工事を行う
北品川(品川Ⅱなので赤鉛筆線引かれる)、北馬場、南馬場、青物横丁、鮫洲、立会川、鈴ヶ森、八幡、学校裏、山谷、梅屋敷、蒲田の各図面(さて、あれ?っと思う停留所は??)
(3)前後車両乗務員間会津方法の説明
各運転台に電鈴「押しボタン」を設備し、前後車両乗務員間の合図にする |
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=== 連結運転の準備=== |
■■■■■各駅の延伸計画図■■■■■ |
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↑亘り線を高輪側に新設している |
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↑用地買収が大変そうな・・・。 |
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↑同じく用買(ようばい)が大変そう |
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↑亘り線があったとは・・・。 |
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↑開通当初の鮫洲停留場
この駅は別途変遷ページを作成中・・・。
と云っておいて何時になるやら(苦笑) |
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↑狭隘な土地に。
廃駅の経過を作成中です
と云っておいて何時になるやら(苦笑) |
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↑立会川に待避設備が・・・
あの建物密集地帯で計画は本当に実現出来たのか?? |
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↑この時期の大森支線の配線の申請が大混乱と思われるが、
ホーム延長の図で決まりなんでしょう→大森支線
なお、鈴ヶ森停留場は設置時点で36mを確保
しているので図面は提出され無かった模様→鈴ヶ森 |
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↑戦時中のS19.11.10廃駅に
ここも大きな精米所と製紐工場がひっかかっている・・・。 |
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↑移転前の学校裏(平和島) |
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↑現 大森町
下の梅屋敷と連続で待避設備の計画は達成できたのか??
出来たような話を聞かないが?? |
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↑梅屋敷
ホームを移転して待避線づくり。山谷と両方実現するとは考えにくい計画 |
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↑2連の運転最終区間駅
亘り線1カ所。留置線無し。どのように2連列車を仕立したんだろう |
K-1形連結器の装着 |
■連結器はアメリカのウエスティングハウス社のK-1形密着連結器を31両×2個で
62個輸入したようです(予備も含めて厳密に62個か不審に思う店主)
形式は京浜電鉄にあやかって「K(京浜)-1(初号)」としたのでは?とか
このあとK-1-AとかK-2とか、K-2-A-2の改良型が出てきます |
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↑↓ K-1形連結器 |
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↑41形の装着 |
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↑51形の装着 |
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↑K-1形連結器 正面図 |
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↑車両偏奇 |
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↑電鈴の結線図 |
■工事
ホームを含め、昭和2年度には準備工事は終了したようです。※京浜電気鉄道沿革誌
■ 連結器に装着されている電連ピンの配線内容は未解明ですが600V回線は無いと店主思考
(1) 制御装置を総括出来たのか?
電連のピンは数に限りがありますが、砧線の玉電60形に譲渡したK1形連結器で2両総括制御していましたから、京浜電鉄も運転士1人で2両を総括制御していたと思われます
※玉電60形はパンタ集電なので600Vの電気連結器無くても2台パンタでMM走行は可能
(2) 電桿式集電器を2両上げて走行?
電桿式集電装置で2両分の600Vを集電して、K1形の電連ピン内で高圧、低圧の混在した
受給電を行うことは容量からあり得ないと考えます。
MM2両運転をするには600V電気連結器が無いので、2両とも電桿を上げて各車の車掌操 作になる?と考えることも可能ですが・・・。
下記の転載写真にあるように、先頭車の電桿を上げ、後部車は電桿を降ろしてTc扱いとし ていたようです。
連結面間の双方の電桿式聚電装置を降ろしていると、曲線やポイントでガッツリ当たる可 能性があるので、双方の当りをさけている運転方法と思えます。
ただ、ラッシュ時のMcTcの2連運転は過負荷になるので2両の電桿を上昇??
2両の電桿式集電器を上げて疾走する姿を見たい(たかった)店主
※全車パンタ化工事はは昭和13年6月認可(申請前に竣工した進捗率はどれくらい??)
■ 京浜蒲田~品川(Ⅱ)の運転(認可申請書設備から類推)
昭和2年3月から運転を開始※沿革誌による日付だが区間は記載されていない(調査中)
蒲田~品川(Ⅱ)間の2両連結運転は限定された本数が運転されたものと思われます。
品川(Ⅱ)~高輪の区間は連結運転の認可をされていませんから、続行で運転したのか?
1両分を隣の東京市電に乗り換えてもらったのか?不明です。
続行となれば、連解結手、続行運転士の手配とか高輪駅の3線ホームが役立ったのか等々
とか、いろいろと当時の不明な情景が沸き起ってきます。今後調べをすすめなくては。です。
※当時、平日ラッシュの写真を撮る。なんていう方はいらっしゃらないだろうし・・・。 |
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↑京浜電鉄沿革誌より転載
後部車の電桿が上がっていない。
前位の44号が牽引するTc扱い??の後部車 |
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↑京福叡山線のMM運転用母線ジャンパ→叡山線のページ |
===14号~17号に取付=== |
昭和12年7月19日付で木造電動客車の14号~17号にK-1形連結器の取付申請を行った |
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↑京浜電気鉄道沿革誌から転載
16号。詳しくは11形11号のページで
バッファが撤去されて中央にK-1-A連結器を装着している |
~~~~~~ 時は流れて昭和14年~~~~~~~~
2両1ユニットの異端連結貨車 湘南電鉄 ト1形1号、2号 |
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↑昭和5年11月7日付でト1形の申請
元は鉄道省の荷重8頓積の無蓋貨車ツ4052、4057の2両を
湘南電鉄の工事用貨車として大井工場にて広軌に改造
してもらう設計を昭和5年12月17日付けで認可された。
この時点で連結器を下記の図面の通りに取り付けた。 |
その後、使用していたが、
ろくな補修をしていなかったのか、営業監査を受けた時、
「破損甚だしき」と指摘され 昭和10年4月30日付で廃車した。
ところが、線路補修の砂利運搬など運搬貨車が必要となって、
なんと、廃車した無蓋貨車ト1形 1号,2号を補修しまくったのか
「貨車再利用認可申請」という希な題名で車籍復活申請を行った |
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(1) 申請
昭和10年4月30日付で廃車した無蓋付随貨車2両は軌道砂利運搬のため、再使用したく認可してください。と願い出た。現今、廃車を「再利用」という文言で復活させることは出来るのか
(2) 営業監査の結果で審査?
前回の営業監査にて2両とも破損が激しいので、注意されて廃車にした
今回の監査の際、完全に修理されていると記載がある。許可には此の文言が引用されてる
廃車を営業監査するのか?という突っ込みも・・・。
(3) 認可
昭和14年9月14日付け認可
両端にデト1形や客用デ1等を連結して牽引されてのでは |
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貨車2両の連結方法が永久連結化と考えられる方法で、
牽引車側はK-1密連、貨車同士は自連で組成?され、
解結しても再度連結するには向きが決まっている珍車 |
【参考文献】
京浜急行電鉄 鉄道関係文集 日野原 保 様、京浜電気鉄道沿革誌
日本鉄道旅行地図帳 4号 今尾恵介様監修 新潮社 |
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※店名略称:フィルムスキャンs、通称店名:鈴木写真変電所
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