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【京浜電鉄歴史】
六郷橋梁と六郷土手駅
2022.05.19.Ver3.1 承-03 |
■本ページのすべての地図、空中写真、出典を記載した写真、図面、掲載物は複写・転載禁止です。
<本ページ掲載の地図、空中写真について>
この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図、2万分1迅速図、2万分1正式図、1万分1地形図及び2万分1都市近郊図を複製したものである。(承認番号 平30情複、第1339号)
■なお、国土地理院の地図は単独或いは貼合わせてトリミングをし、地図活字以外の文字、色線、矢印、着色は店主記載・加工です。
また、空中写真については国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスに掲載されているものを店主が加工したものです。
■本ページを作成するにあたり国土地理院の空中写真、地図の承認を得たほか、文献として引用を含んで京急80年史、日野原保様の社内関係文集、京浜電気鉄道沿革誌(昭和24年5月30日発行)の本文の引用、参考及び掲載写真の転載させて頂きました。
ほか、店主調査によるもの、個別に示す資料等を引用・参照させて頂きました。本文中の(株)は省略 |
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↑↓六郷土手側から上路ガーターに付番があって1~18迄は撮影確認しているが
本流部分のトラスまで24連あったなんて、撮影当時そんなことは頭に無かった※下記参照
↑なんと架線柱が河川敷から立ち上がっている京急仕様??豪雨の時は架線柱にも
川の水とゴミと押し寄せるが、耐え抜いたのか?そんなことにはならなかったのか?
この架線柱番号は「六川5」
↓更に下手くそな、多分パシフィック号の写真しくじり |
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京浜急行専務取締役時代に執筆された日野原保様の文献によると
明治44年4月1日に完成した六郷橋梁は支間12.8mの上路 鋼板桁 24連と支間31.2m×6(純径間30.48m=100フィート)とトラス橋で構成され全長515.897m、橋梁の製作会社は川崎造船所であった。橋脚は煉瓦積み構造。
その後、関東大震災で橋脚に亀裂、沈下、傾斜が入って桁補修を行ったほか、車両重量の増加等で何回か補修を行った。 |
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同上の文献から六郷橋とその関連の歴史を順に追うと
(1)【第1代六郷橋梁】
明治34年2月1日に六郷橋(初代川崎駅)~(官設)大森駅に隣接する大森停車場前間を開業。
六郷川(多摩川)に第1代六郷橋梁の単線延長55間(約100m)の仮木橋を架けて河原に線路を敷設。※1
河原から堤防を跨いで旧東海道上の国道に併用軌道を敷設して蒲田方面に向かった。
架橋場所は人道橋に隣接した上流側で、下記のア~ウの理由などで55間(100m)の単線の木製仮橋とした
(ア) 川崎、六郷地区の有志の共同出資で架設された橋梁があった。
原設計する木橋建設よりも、手っ取り早いという理由から、明治32年7月19日共同出資橋を買収
鉄道併用橋転用をと企てたが、なんと電車運転に耐えられないことが判明した。
明治39年12月に修繕して国に寄付した
(イ)別に鉄橋を架設するべく認可申請したが、研究の結果、困難なことが判明
(ウ)鉄材を外国から輸入するため、到着して架設するまで1年半~2年はかかる。
川崎~大森間の専用軌道は明治33年中には運転開始出来る予定なので、買収したが使用不能な有志架設
の橋の杭位置の川上に新たに杭を平行して建植し仮架橋する許可を得た。
平行して架橋した理由は、脚が多くなって川の流れを妨害するの観点、地盤、認可の関係で同一位置にしたと思われる。
※増水時は河原が水没して、橋脚の損傷等が発生してその間は運休せざるを得なかった。
[異常増水による被害]
明治35年、8、9月に数回の出水があって六郷~川崎(初代)の運転を中止したり、暴風雨のために六郷橋の塵芥杭全部の流出の被害があった。
【改軌】
明治37年3月1日軌間を東京市電と直通乗入をするべく、1372mmに改軌した
(1) 明治37年5月8日 品川(現:北品川)~八幡(現:大森海岸)間開通。
大森停車場前~八幡間は支線化、昭和12年3月8日路線廃止
高輪(現:品川)~北品川は大正14年3月11日開業、その後、併用軌道は専用線化、現在の路線となった。
(2) 明治38年12月24日 川崎~神奈川間10.0km開通→関連ページ
六郷橋停留所をと接続線路を再構築して川崎へ直通化 |
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↑初代の木橋単線の六郷橋 (京浜電気鉄道沿革史より) 人道橋の上流に設置(建設)とあるので初代川崎駅(後の六郷橋)付近から撮影
と思われ、手前にレールが積んであり、電線ドラム?や車輪もある |
(2)【第2代仮六郷橋梁】
六郷~大森間の軌道を国道上の併用軌道から専用軌道に変更するため、鉄橋の架設位置について明治38年9月鉄橋架設地点及付近線路変更の許可を取得、明治39年5月鉄橋工事施工許可を受けた。
鉄橋の竣工まで、仮木橋を架橋することにし、明治40年11月2代目仮木橋が完成、複線運転を開始した。
但し、鉄橋の設計について変更遅延が重なったため、明治42年5月になって着工準備が開始された。
明治39年10月1日 六郷橋梁の位置を現在の六郷橋梁に平行する位置に変更し、仮木橋化した。
明治40年11月複線化が完成した
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(3)【第3代六郷橋梁】
工事着工までに設計変更が度々行われ、明治42年5月に工事を開始した六郷橋梁は明治44年4月1日に支間12.8mの上路鋼板桁24連と支間31.2m×6(純径間30.48m=100フィート)のトラス橋で構成した全長515.897mの橋梁で3月31日に竣工、運行を開始した。
橋台橋脚及び付属土木工事は鈴木由三郎氏に請負依頼、鉄桁は川崎造船所に注文した
開通時期について「恰も花季の乗客輸送に遺憾なからしむるを得た」と桜の花見客輸送に対応出来たことを喜んでいる。
[六郷橋梁再改軌]
昭和8年4月に本線を1435mmに再改軌した。
東京地下鉄道と直通計画が「本当の主理由」※だったが、五島慶太による東京地下鉄道強奪で挫折。
改軌理由を「湘南電鉄と相互乗入理由が主」としただけの著述も多い。
※230形(湘南デ1形、遅れて京浜電鉄デ71形)は東京地下鉄道との直通運転を考えて東京地下鉄道1000形と車両規格を揃えていた。
(4)【第4代六郷橋梁】このページのだいぶ下になります(苦笑) |
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↑第3代六郷橋梁 (京浜電気鉄道沿革史 )より |
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↑3代目六郷鉄橋が完成した。 道路橋は架け替え中 |
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↑↓オールノーシルノーヘッダー421以降の2連×4本で組成の海水浴特急8両編成 |
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↑品川へ ↓久里浜へ 433号 |
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↑440or470と421以降の2連×2 |
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↑440or470と437F?+414の8連 |
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↑4連×2 |
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↑↓カビ、ピンボケ見本。本来ボツ写真だが1096らしきで。
往復ともこの写りとカビでは泣くより悲しい↓久里工入庫か??堀之内止まり |
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↑上に比べれなこれはナントカの1098 |
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↑当時の制限速度は83km/hやけに半端な数値だが、限界まで速度を上げたかったと思われる。 |
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↑1178-2連増結 「H」だからホロ貫通編成 |
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↑特急 パシフィック号 |
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↑特急 成田山号とあるが京急線内は「快特」 |
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↑特急 逗子号 |
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京浜電気鉄道初代六郷橋の頃の道路橋 |
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↑↓国土交通省川崎国道事務所平成15年10月17日発行「旧六郷橋親柱物語」パンフレットより
出典元サイト:http://www.ktr.mlit.go.jp/kawakoku/pdf/oyabashira.pdf
↓水害の様子や天皇渡河の際に船並べて固定し、道とした等が判る ↓↓その下設計図 |
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↑明治天皇渡河の為の「御船橋」の設計図
↓上流が右側なのだろうが、左側の記号はアンカー??とすると?? |
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六郷川(上流は多摩川-正式河川名)はその昔から暴れ川で洪水の度に橋を流し、周辺を水浸しにした。
住民にとって橋は重要な交通手段で、鉄材料や土木技術が発達しない時代は、川底に木の杭を打ち込んで橋脚とした。
店主的にはどのように川の中に太い丸太を打ち込むのか、非常に興味があって、機会があったら調べたい。
さらに、技術用語もその昔の用語が現在とは異なっており、検索出来る語句はまだしも、特殊なものは想像するしか無い。
例えば「塵芥杭」は出水時に流木やゴミよけの前衛として打ち込まれていると思うのだが・・・。その業界の古老も少なくなっているようだし。
「橋が流される」=周辺の田畑、住居は水浸しも考えながら、六郷川橋梁に限定して架橋について調べました。
大正3年には度重なる洪水被害を無くすように、現在の南武線武蔵小杉から六郷鉄橋までの住人約500人がアミガサをかぶって神奈川県庁にデモを架けた事件も発生した
京浜電気鉄道は明治39年12月に修理の上、政府に献納したが、明治43年、44年の度重なる氾濫で崩壊流出した。
明治44年、東京都・神奈川県により小型の仮橋が設置されたが大正2年流失、再度架橋された。
これを繰り返す中、関東大震災で被災した中、大正14年8月鋼製の下路アーチ形のトラス橋が完成して、以降交通は確保された。 |
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↑↓国道の六郷橋も架け替えが終了。撤去される旧橋梁 |
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4代目六郷橋梁 |
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(9)【第4代六郷橋梁】
昭和47年3月31日上下線で新六郷鉄橋の使用開始。3代目橋梁から10.5m上流側となる。
六郷土手第一踏切立体化と六郷土手駅の高架化(60m川崎寄に移動)工事を伴いながら、S46.6.27上り線、S47.3.31下り線
が新橋梁使用に切り替えられた。第3代目の橋梁の寿命は満61年に1日足りなかったと記されている。
第4代目となる新橋梁は支間65.82m×8スパン、幅8.5m耐候性鋼板使用のトラス橋で全長550.56m、重量約1,800t、
製造所は東京寄りから第1,2連が横河橋梁、第3,4連を宮地鉄工所、第5,6連を東京鉄骨、第7連は川崎重工、第8連が日本鋼管。
橋脚は鉄筋コンクリート製、橋脚本体は直径3m、張り出し幅11.5mのT形7基、両端に直径4m2基。
基礎工事は昭和44年10月3日から45年8月15日、架設工事は45年10月1日から46年3月10日まで。
架橋工法はカンチレバーエレクション工法、ステージング工法。橋梁部分の費用は約7億5千万円とある。 |
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↑↓新橋梁はポイント部分の制限速度95km/h以外は105km/hで走行だが、
写真は最高運転速度95/km↑と100km/hの列車↓ |
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↑銀帯の上下に付いていたステンレス製の飾り帯は順次撤去された。 |
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↑木枕木の締結装置。
橋梁とレール材伸縮対応で鋳鉄製のレール敷物と2種類の締結装置が交互にレールを締結。 |
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↑3代目橋梁の最後の地図。発行は昭和46年9月30日(2万5千分の1)
上り線は切り替わり、下り線は昭和47年3月31日に切り替わるのだが
上流側で工事をしている記載が無い。道路橋は架け替え済み
六郷土手側が高架では無いので3代目で間違いない。
その後に発行した地図を買い足せば差異が判明するのだが、¥¥¥¥ |
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↑六郷土手駅と4代目六郷橋梁↓ |
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↑旧橋梁解体中遠景 |
-------------六郷土手駅------------ |
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↑↓六郷土手駅 一般道は警手が踏切遮断機(帯)を操作していた |
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↑高架化により約60m川崎寄りに駅が移動した |
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↑徐行予告標 |
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↑↓徐行制限50km/hの位置 |
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↑六郷土手駅 蒲田方 架線柱の駅間速度標にご注目 |
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↑六郷土手駅 川崎方 踏切の先は第一場内信号機に思える。 |
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※店名略称:フィルムスキャンs、通称店名:鈴木写真変電所
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