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大師電気鉄道開業
堤防上の併用軌道からループ運転廃止まで
2023.10.12 Ver2.03 |
文中の日付は手元資料にある申請日、認可日、文献記載日等を記載しますが
あくまでも書類の日付です。「このあたり」で歴史が動いたというご理解でお願いいたします。 |
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↑明治32年11月複線化された頃の写真と説明にある
写真の線路中央の架線柱は当初から複線用だったのか、線路の両側ギリギリに移植したと言われる多数の桜が植わっている
開業当初は単線延長1080間(約1.96Km)のうち2カ所の停留所は40間(約72m)、行違線は24間(約43.6m)の有効長を確保した
※ポイント先端からか接触標からかどうかは不明 |
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京浜電気鉄道沿革誌による
大師電気鉄道の開業前後 |
※■見出しは店主作成、文章部分を適宜抜粋、句読点等は適宜現代化したものです
■明治31年1月21日、単線で六郷橋~大師間2.0kmを開業
敷設にあたって、既設の幅4間の堤防道路を単線区間は5間、久根崎、池端の駅2カ所と行き違い部2カ所は6間に拡げた。※1間は約1.8m
幅5間の単線区間も殆どの区間で複線用として幅6間の盛り土工事を行い、県の許可を受けて櫻を両側に移植した。
10ヶ月後の明治31年11月20日に複線とした。(店主注:恐るべき工事速度である)
■職員
事務部4名、運転部8名、機械部4名、線路部1名計17名
運転手及び車掌は月8円から12円の給与で採用したが、運転手の養成に就いては当時、未だ東京に適当な教習所もなかったので名古屋電鉄へ派遣した
■乗車賃金
川崎(六郷橋)から大師迄 並等5銭、上等10銭
川崎(同上)から池の端迄、池の端から大師まで各並等3銭、上等5銭
官設川崎停車場前に人力車組合と妥協して切符売り場を設置
官設川崎停車場前から六郷橋まで4銭の賃金として連絡切符を売ることとした
■車輌
当初8薹で運轉する豫定であったが、先づ発動車4薹、連結車2薹を使用することにした
発動車の内2薹は和製、その他は外国製で車体は全部和製品を採用することとした
外註の車薹は8月中に到着し、車体も9月中に出来たが和製の車薹が開業までに間に合ふべくもないので、三吉商會所有の電車1薹を借り入れ修理を加え、結局発動車3薹、連結車2薹、計5薹を以て開業にのぞんだ。なお、三吉商會の車輌は上野博覧会に使用したものであった
■車庫
車庫は六郷橋際に葭簀(よしず)張りの囲いをして外国製車薹を組み立て、大学の実習生も参加した。(六郷橋)車庫は明治31年12月初旬に完成した
■発電所
愈々十月中に開業予定であったが、車輌2薹が未完成、バクナルエンドヒレス商會に注文した汽罐及び発電機は製造会社が破産して到着しなかった。
さらに明治32年1月1日を開業の予定として12月16日到着の契約をした発電機が、積み荷漏れで遅延したが1月16日に到着した
急ぎ取付して1月20日に検査を受け21日には発電を開始した
■運転開始
明治32年1月20日に及び工事落成に対する使用許可を得たので、旅客運輸認可の申請をなし、午後5時運転を開始し、町内の人に限り無賃で試乗せしめ、翌21日大師の縁日を期して華々しく開業した (略)
延長僅か1哩4分の1とは云え、帝都にも未だ観ない電車が軽快に疾走するので物珍しいため、付近の人々は沿線に黒山を為して見物すると云う状態であった。
尤も速力は一時間八哩(12.8km/h)の制限があって、今から見れば頗る遅い物であり、技術も幼稚であった為、度々脱線し、想像以上の故障が続出したことは云うまでもないが、乗客誘引策として扇子を配布したなどという話柄も残っている
■開業当時の状況
1月21日より5月31日迄一日も運天を中止すること無く、営業日数131日、乗客相当多く、毎月21日の如きは非常の雑踏を極しも線路の単線ナリシと車輌の不足ナリシ為、充分に乗客を運び能ハザリシ感アリ。(中略)
毎月21日の如き、数万の老幼群集し往来織るが如き場所に於いて乗客を満載し乍ら、一日二百五六十回餘の運転をなして、過ちなく一人の負傷者を生ずるなかりし(後略)
■桜の堤防の当時の状況
今や櫻花爛漫加ふるに堤下田甫の菜花河畔の桃李競ふて春色を呈し玉川の白帆は樹間に其影を止め、水陸の光景眞晝境にあるものの如し。
電車は一望盡し難き櫻花のトンネルを往復し、夜間は其の燈光花瓣に反射して 愈々(いよいよ)艶、到底他の及ぶ處にあらず
■軌間
明治29年3月18日 川崎電軌として出願した際には3呎6吋(1067mm)であったが、当時、官営鉄道で4呎8吋半(1435mm)にすべきと広軌論が出て論争になっていた。
当時の発起人は(論議に)「範」を示すとして、出願書の軌間を軌間を4呎8吋半に改めた
■開業前トラブル後日談
発電機納品を遅延したバクナル商會から1,750圓の賠償金を受領、汽罐は注文品よりも1,460圓高価な良品を納入させた
発動車2薹(両)を遅延した芝浦製作所からは運転開始までの見積もり収入賃金の三分の一を賠償金として受領した
◆ 堤防の位置
大師電気鉄道の開業当時の回想文には、桜並木が見事な大師新道と呼ばれる六郷(多摩)川堤防上に敷設された(要約)とあるが、実際は下図↓のように堤防から川岸まで俗に言う「新田」が出来ており、堤防(薄黄色に着色)とは言うものの、内陸部にあったのが真相 |
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入手出来る国土地理院の地形図は
明治26年再版(開業前)↓↓、明治41年発行(川崎駅延長後)↑↑の
2種しか無く、開業当初の六郷橋のループが描かれている地形図は無い |
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↑明治18年初版を明治26年に再版した地形図
京浜電鉄は未だ影も形も無い・・・。
東海道線川崎停車場と東海道の町並みは真っ黒で表現
六郷川の道路架橋は無く、渡し船で六郷渡船場となっている
鉄道を架橋できた当時の鉄道輸送力(権力含む)の強さを物語る |
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周辺も含めた線路の変遷 |
<大師線開通>
■M32.01.21
六郷橋から途中、久根崎、池之端の2停留所と2箇所の交換所を設置して大師まで開業
※六郷橋、大師の両終点はループ運用 車庫は六郷橋に設置※上記車庫部分参照
■M32.11.20 六郷橋~川崎大師複線化
※堤防の幅を6間に拡幅し、櫻も移植して線路を敷設した
<社名変更>
■M32.04.25社名を京浜電気鉄道に変更
<六郷~大森間の敷設のトラブル>
敷設にあたって沿道の反対が猛烈を極め、工事中の道路に杭を打ち込むなどの騒ぎで工事を中止のやむなきに至った
沿道村民とは有力者の仲介により協定書を作成して事を納めたが
協定書は
(1)道路幅員は命令書の幅員に準じ双方立会の上之を定
(2)軌道は可成中央に直線敷設のこと
(3)一部現在道路幅員の儘にて敷設する場合は単線の事 而して道路拡築の上複線敷設の場合に沿道人民と協議を要す
となった
単線は人家密集部分は幅6間以上、それ以外は5間、複線の場合は各1間増し、密集地において協定より1間以内の場所は府県知事、警視総監名にて拡築を猶予することで切り抜けた
一部単線は沿道村民との協定書によって道路の拡幅が出来ずに敷設したためであった
<官設大森駅へ延伸>
■M34.02.01 六郷橋~官設大森駅間7.2km開通
六郷橋~八幡間は国道上に敷設、一部単線区間※あり
八幡(海岸にM37.05.08改称)~官設大森は京浜電鉄の専用軌道
同時に六郷川仮設木橋(初代・単線)を架橋、運転開始
※M33.12に仮木橋は完成したが、道路拡築に一部不備があり改善の後、M34.01下旬に竣工
仮木橋以外は河川敷の旧国道1号上(築堤)に併用軌道敷設
<新設川崎駅まで路線延長>
■M35.09.01 六郷橋~川崎間1.9km開通
川崎~下新宿間は複線専用軌道、旧東海道上は幅員狭く、単線併用軌道で六郷橋駅に至る
延長後の大師線運転方法
川崎駅にループ敷設(六郷撤去)、大師は既存ループ、川崎駅のループ内に車庫を設置 |
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↓若干拡大 |
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↑地形図の下新宿の川崎寄から六郷橋(Ⅱ)の間が単線軌道の表記になっている
川崎寄の下新宿付近の複線から単線区間のヒゲが1本カーブに沿って
があるように見えるので、此処からかな?とおおよそ想像している店主 |
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↑下新宿(車輌のあたりが電停)から川崎駅に向かう単車
M35.09.01 六郷橋~川崎間1.9kmが完成
旧東海道上の路面区間は写真で見るとおり道幅の関係で単線となった
ここをボギー車デ1形がM37(月日不明)からM39.09.30まで運行していたとは驚き!! |
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↑信号配置図と信号配置表
信号配置表に単線運転用とあり、
配置図には閉塞信号機が新宿(大師方)、六郷橋(川崎方)に1基設置されている |
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↑ 左上: 大師旧線の各駅の位置、運転速度や停車時分
哩、運転時分合計が縦合計と違う気がするが・・・
新宿、六郷橋(Ⅱ)他各駅の位置はこの区間哩表を基本にします。 |
<第1回目の改軌>
■M37.03.01 東京市電に乗り入れすべく1372mmに改軌
<日本初のボギー車稼働>
■M37.09.21(認) デ1形 使用開始10両
※ループ構造の大師線には入線認可が下りていない
理由は橋梁耐力不足(松等の木材製)、建築定規に対する車体幅員オーバー懸念
※この車輌導入のための準備としてM35.09.01 六郷橋~川崎間1.9km開通させたとも読める
■なお、大師線の六郷橋~大師間にボギー車の入線は認可されていなかった
■M38.05.31 認 デ11-20増備※大師線入線不可
<神奈川へ延長>
■M38.12.24 川崎~神奈川間開通
■M39.月日不明 デ16-20就役
■M39.10.01 複線仮木橋完成
川崎~六郷橋・六郷橋~雑色間は専用軌道化
川崎ループ廃止
※雑色~蒲田はT12.04.01専用軌道化
■M40.月日不明 デ21-25就役 認可書に大師線乗入れ禁止記載
■M41.12.24 ボギー客車2両連結運転申請却下
連結運転申請書に通常、本線はボギー車、支線は小動車使用しているが祭日は激混み
六郷(土手)以北は総て複線化、国道(併用軌道)は蒲田~六郷(土手)間のみなので連結を申請
※東京府の公安委員会が道路混雑を理由に強硬に反対。神奈川公安は専用軌道なので様子見
■2代目木造の多摩川仮橋、補強工事するも水害により損傷
M43.04.28
M43.05.30補強竣工
M43.07.12仮橋延長使用認可
M43.08.16 洪水にて通船渡し 2週間の予定
<3代目 六郷橋梁完成>
■M44.04.01 鉄鋼製の六郷鉄橋514m開通 ※現在は4代目551m
■M44.07.22 デ26-28 新規製作申請 大師入線不許可 監1014号
■T02.06.05 デ29-40 監1074号 M44.07.22監1014号 追加方法準拠製作大師入線不許可
■T04.11.05 監2364 単車7,18,2,11ベスチュビュール化に対して大師線除外で認可
■T05.04.12 同上の単車7,18,2,11 限界測定の結果、支障なしと申請、大師入線認可 |
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ループ線の廃止 |
輸送の主力は京浜間になって、大師線は単車によるループ運転となっていたが
まずT11.05.02付で大師停留所のループ廃止申請が受理された |
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↑↓大師停留所ループ廃止申請書 |
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↑大正10年10月3日申請 認可:大正11年5月2日
運転車両の輻輳、将来海岸電軌軌道と連絡計画
の必要上ループを廃止して構内配線を増改築したい
※海岸電気軌道はT14.10.16に大師まで開業 |
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大正14年4月8日 京丑第122号で工事方法一部変更願
※明治時代から申請の主題はほぼ総て「工事方法一部変更」で、一体どれがどの工事だか「判らないようにしていた?」と思われても仕方ない
大正14年4月14日付 14土収第1757号で神奈川県知事から進達、大正14年6月1日付監1235号で
通牒として ※この時期の重大事はT14.03.11(沿革誌)に高輪乗り入れ開始 |
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↑川崎駅ループ最終配置 M39.10.01~T14.05.30??
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・大師線は通常ループ運転なので発着ホーム1本で乗降客を捌いて発車していた
・品川方からは直接大師線には乗り入れ出来ない構造
下り切り欠きホームに到着し、品川方面に折り返す構造。
このホームで乗換旅客を乗降させ下り線を支障せず折り返し使用したのだろう
・車庫は川崎車庫(Ⅱ)を開設、ループ線と川崎車庫(Ⅰ)を廃止して本線の車輌を運転出来る準備を行った
・S03.12.28●●申請?六郷橋の川崎方~大師間に新線が敷設されるまでデ1形以降の運行はお預けだった |
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<ループ運転終焉>
■T11.05.02 大師ループ撤去認可
この時点で単車+付随車の運行は終了していたと思われる
理由は付随車の付け替えが出来ない配線になったと推測
でも、折り返しも容易な、まさかのMTM運転片M稼働のプッシュプルがあった??なんて
この当時はホームがあろうが無かろうが、線路からの乗降は可能だった。でも、まさかねぇ~
■T14.06.01 川崎ループ撤去認可
<海岸電気軌道開業>
■T14.10.16 海岸電気軌道開業、大師、総持寺で線路接続
※この時点で京浜電鉄のデ1~10号が海岸電気軌道に移籍(廃車移籍)しているので、大師駅(海岸電気軌道)に一番乗りしたボギー車は海岸電気軌道と言える
※海岸電軌鉄道はS17.07.01休止、S19.11.10廃止※S12.11.30運転休止説あり
■T15.09.20 デ14、15,16,17の4両51号形準拠車体に更新
■大師線入線は線路改良後が条件となって専用軌道化されるまで本線運行のみだった |
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↓川崎駅のループ廃止後の大師線ホーム |
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↑川崎駅近隣にこんな川が流れてたなんて
車庫は生麦車庫と同様当初はトラバーサーで1両毎に移動していた
合理的なようだがトラバーサー自体の移動速度が遅く、車輌の移動に
時間が掛かって撤去されてしまった。本線下りホームは待避設備が無い状況
↓んで、この川のおかげで、その後に設計変更が数度 |
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↑コンクリートパイルが出現するまで、あらゆる場所で
建築構造物の支持に木の杭の使用がごく普通だった |
参考、引用文献 京浜電気鉄道沿革誌 |
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※店名略称:フィルムスキャンs、通称店名:鈴木写真変電所
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