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【京浜電鉄歴史】
八ツ山国道橋梁増設と併用軌道の変化
2022.11.19-Ver1.10
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帝都復興院 復興局 土木部橋梁課が昭和4年2月に製図完了した図面によると、国道輸送量の増加対応して八ツ山橋梁の3アーチ2橋床の隣にほぼ類似の橋梁を2アーチ1橋床の通常形式の新橋梁を増架橋することが決まった。
同時に、在来の八ツ山橋梁の1橋床に1本の線路で2橋床の各片側を占有している状態から、新たに3連並ぶ橋梁の内、中央の1橋を上下線で占有することが予定された。
【帝都復興院】[参考]Wikipedia:帝都復興院
大正12年9月1日の関東大震災による速やかな東京、横浜の復興をはかるため、同年9月27日に帝都復興院が組織された。
しかし予算(利権)の政争の具になって半年も経たず大正13年2月25日に廃止されたが、事業の必要性から同日付けで内務省に復興局が発足し引き継がれた。
事業の目途がある程度立ったのか、復興局は昭和5年4月1日に廃止され、同日、復興事務局が発足して昭和7年3月31日まで事業を行った。
「事務局」なので国鉄精算事業団のようなものではなかろうか。 |
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復興局図面で見る八ツ山橋梁と線路移設 |
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↑増設橋梁図 |
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↑高輪側が下に描かれている点に注意 |
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↑↓橋梁材と軌道の関係※
↑の「高輪方」を真に受けると撤去すべき在来橋が逆じゃねぇ? |
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↑橋梁は事実上、鉄道専用になるが、そこはお役所事業
線路は上図のように路面電車舗装され、電車が通らなければ人車使用可だったのかも |
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↑拡張された橋台。新規部分に長い積層材料が使用されている |
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↑ 移設関係と車両
↓拡大 |
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京浜電鉄が鉄道省と内務省(路面軌道)に復興局から問い合わせに、このような工事方法で返事をして良いかと昭和5年8月に認可申請、諸所を決裁されて内務省は昭和5年11月に認可している。
復興と名の付く工事だけに「補助金」が工事費の1/2復興局名義で支出されると記載がある。 |
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昭和7年の京浜電鉄改軌申請時の図には、しっかり使用されている様な図になっていました。 |
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↑右側に増設した八ツ山道路新橋、中央の橋梁に上下線を移設している |
しかし、昭和7年には京浜電鉄独自の八ツ山橋梁の工事が最盛期だろうし、京浜電鉄が品川駅(Ⅲ)に乗り入れが昭和8年4月なので、もし図面の通り完成しても1~2年しか使用されない幻の状況だったのではないか?と。なお、完成使用開始時期は調査中。撮影した方は貴重なコマです |
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↑昭和35年~昭和39年9月の新(新)国道直進化とその橋梁架設工事の工期中に撮影された写真
写真の八ツ山にかかる国道は既に京浜電気鉄道・市電共同品川駅設置時に拡幅されている。
拡幅前は道路上に双方の品川停車場があった。
緑と紫の薄線は品川(市電Ⅲ、京浜電気鉄道Ⅱ)で直通していた時代ですが上の図が正しいです
木製の八ツ山橋を架け替えるに当たって[写真1・2]は2橋梁を中央アーチを共用する2子連接方式?で架橋された。
さらに増大する交通量に昭和5年に同形の形状を持つ単橋梁[写真3]が増設され、2子橋+単橋となって昭和39年まで任を担っていた。
※両橋梁とも建設主体は未調査。上記対談によれば、最初の架橋分は官設鉄道負担のようにも思えるが、拡幅の増設分もそうなのか?あまりの似すぎに同じメーカに発注したのかと思ってしまう。景観の統一とすれば発注した人は、都市景観に理解のある方だった?
■古川中管局長のご高説はポンキチ話か
「品川~八ツ山間の道路は御承知の如く狭隘なので、幾個の橋梁を架することは困難であり、しいて単独で架橋せんと希望すれば、その経費は巨額を要する。新鉄橋を利用すればその経費は3万3千余円にて足りる」というご高説に飛びついて京浜電気鉄道は負担したようだが、
昭和8年迄にご覧の通り、品川駅乗り入れのために京浜電気鉄道が新たに架橋し、実際4橋も架橋されて「幾個の橋梁を架することは困難」は覆ってしまった。
官吏は金を出させる話が何時の時代も上手だの~ |
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※店名略称:フィルムスキャンs、通称店名:鈴木写真変電所
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